穏やかな時

世の中に逆行している時が好き。

 

 目 次

  1. 決められた生活枠から外れると

  2. 誰のことも感じたくない

  3. 「 自分が価値を見出した商品」を買いたい

  4. 娯楽がないメリット・デメリット

 

平日の昼間、学校のチャイムが鳴る。12:00頃は社会人が休憩に外に出る。

晴れた日、お花見シーズンが終わった緑生い茂る河川敷に用事のある人はいない。子供の過疎化が進む現代のこの片田舎では舗装されていない公園に賑わいはない。住職がいるのかも分からないような小高い場所に佇む古びた寺に参拝する人も見たことがない。11:00、リニューアルした市の情報センターでは受付のお爺さんと友達のお爺さんだけ居て、近所のおいしいご飯屋について談笑をしていて、昼間の暖かさと木の温もりに包まれた空間に余分なぼくは居ない。18:00頃、お年寄りが必死で新聞を何冊も老眼鏡で読んでいて、高校生はいるけど同世代はまるでいない。21:00にもなると道路にひと気はまるでない。道路のど真ん中も平気で走ることができるくらい先の先までハイビームも届かないくらい車もない。

今までは、私が所属する場所に移動する為に電車を使って外に出る必要があった。けど今の生活はすべて市内で収まってしまう。7年間電車が必要な生活から、解放されてしまった。本当に1人になった。インターネットから「社会」を受容してばかりでいると発信しない限り自我が消えそうになってくる。時たま外にでないと自分が帰ってこない。外が社会というよりは、(現代っ子特有なのかもしれないけど)「ネットが社会」

 

誰もいない1人の空間は自身が1番大切にされているなあと感じる。

私がもっとも自然と一体となって、無になって、余分な他人の価値観を許容されない空間。清流の中で生き生きと泳ぐ魚と全く一緒。

何歳なのか分からないくらい昔から鎖に繋がれている犬の横を通り、工業的な音は一切聞こえず、鳥の声しか聞こえず、植物の匂いで一杯になった河川敷を自転車で滑走する時、私は目の前の景色を有りの侭に受容することができる。近代的に舗装されて居ない無骨な有様のまま残る、誰からも見向きもされないようなこの景色は「人」を感じない。少なくとも昔の誰かが作ったものではあるのだけど、「現代人の誰かの意思」を感じにくい。突き放されたような「社会」と確立されたこの空気感はとても私に居心地の良いものを与えてくれた。都会人ぶってんじゃねえと田舎住みの学生に怒られそうだが、私は今そう感じている。

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最近の楽しみは自転車で1分くらいの坂を降りた場所にひっそりとある半無人販売所でいちごのパックを買うこと。もう6月なのにイチゴを200円で売ってくれる。スーパーに行ってもイチゴのシーズンは長くても3月くらいで終わりを迎えるのに、それを過ぎて暖かくなってくると商品価値が下がるから売ってもくれない。個人販売をしている人は値段が低くてもそこに「需要」というものが存在しているから、ぼくみたいな貧乏人の為に必要な人のために売ってくれる。神ですね。スーパーのように必要なものがすべて揃っている場所は便利だけれど、必要なものを必要な場所で目的を持って調達しに行く、といった行為はなんだかRPGのような気分でとても楽しいのだ。

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ぼくはこの町を中心として、旅行からお買い物から就活から日本各地に赴いて来た訳だが、大体の「欲」というものは消化できたと思う。都会に対する娯楽的欲求は大体解消した。もう子供ではない。

土地に根を下ろす。

ここは住みやすい。

娯楽施設がない、というのが田舎の欠点であったりするが、娯楽施設を一切必要としない精神にまで持っていけば、ここは最強の環境ともいえる。集中しやすい。

 

唯一の欠点は電車の民度の低さ。これだけはダメ。上京するときのガキのマナーのなさは本当にダメ。自分達が世の中心だと思っているから。あと、車を運転してる若い奴らも煽りが多いからカス。「車道」は公共のもの、みんなのもの、社会が、自分以外の人が集まる所。いわば、「コミュニケーション」の場。ここは無駄に疲れる。移動手段にコミュニケーション力を無駄に浪費したくない。働く時だけで十分だ。