■ つくらざるおえない

大学を卒業をしたら、もう作品をつくることはないと思っていた。

 

 目 次

  1. 卒業して見えた「景色」

  2. 「消費者」になるのが怖い

  3. 今まで見てきた「景色」の否定

  4. 「休み」=「逃げ」

  5. みんな本音を言って欲しい

 

なのに私が4年前に想像していた景色とはまるで違う。社会人になったら勉学的に物作りをしていた大学生活から切り替え社会人として新たに平凡な一般人として生きてゆくのだ、と具体的に現実味を帯びていない不明瞭な未来を想像していたのだが、今見えている景色というものはどちらかというと途方もなく現実があり、先があり、今後の「野望」が止まらない。野望というか人生の課題というか、私が絶対に生きている内に成し遂げないといけないこと。僕にしか出来ないこと。俺がこの手で作り上げなければいけないという使命感、に駆られている。私自身が本心から楽しんでやりたいこと、というよりは苦しんででもやらなければいけないこと。

まさか卒業後の空白期間があるなんて思いもしなかったから、こうやって一切の強制力のない生活を過ごしてみると逆にやりたいことが無限に湧いてくる。そうして僕は「職業」にどんどん適応しない人間になる。深夜まで起きてピアノ曲を聴きながら感傷に浸り罪悪感に駆られながら何かをしている僕の生活ルーチンは大学3年生の冬から何も変わっていない。苦しさも向上心も使命感も。"学生のノリ"は消えると思っていたのに、優秀に就職活動を乗り切って行った同級生達に対する謎の「悔しさ」と「執念」は日に日に増すばかり。僕の時間は完全に止まっている。

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ゲームがずっとずっとしたいと言い続け、早2年が経った。ゲームをするとハマってしまうから。限りなく現実逃避がしたい。ファンタジーに浸かりたいし、エロゲに手を出して脳味噌からっぽ人間になりたい。そんなこと言って、ブログもしてるし、業界知識としてアニメも見てるし、関係ない本も読んじゃうし、Google先生に他人に見られたくないような言葉も沢山検索してるし、目標の為に費やした時間ではない遠回りは結構しているのだけど、それは僕のどうにもならないメンタルをマイナスからプラスにする為の回復行動と言ったらこれはただの言い訳である。娯楽も勉強の内、なのだとしたら私は一体何が娯楽なのかわからなくなってきた。

幼少の時の思い出で一番印象に残っているといえばゲームの内容である。「ゲーム」は私の生活にあまりにも溶け込みすぎて、ゲームの話をするとめちゃくちゃニッチなシーンを覚えていたりして、自分がとてもゲームをしていたという事実を改めて知る。そのゲームをしていた時間が無駄だったか、と聞かれたらそうとは思わない。とても楽しい時間を過ごしていたから。各ゲームに費やした思い出、BGMというのは今も色濃く残っている。

そして、そんな楽しいゲームを今から手を出そうと思うと怖くて出来ない。そんなことに時間を費やしていたら圧倒的消費者のままになってしまう。もう私は消費者になるのが怖い。負ける。そんなことを悠々自適にしている間に同級生に出し抜かれる、資本主義に負ける。自分自身で考えて常に苦しみながら自問自答して戦い、生産し続けることこそ正しい姿なのだと、それが有るべき姿、クリエイターとして善人の姿、と完璧に刷り込まれてしまった。

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大学以前は完璧に消費者側でコンテンツを見ていた僕は、academicな学生生活の中で、「一般人とは違う視点から物を見る」という思考が「当たり前」であり暗黙知のように会話が展開していることに、僕の今までの「当たり前」がひっくり返されて追いつくのに大変時間がかかった。18年積み上げた僕の「当たり前」の思考をたかが4年間で取り返すことはとてもじゃないけどできなかった。

「好きなデザイナー(もしくはアーティスト)は誰か?」と聞かれた時に、そんなのは居ない、浮かばない。作者にまで注目して作品を分析しないからだ。私はあくまで、作品のこのコンテンツの雰囲気が好き、そしてあれも面白いから好き、といった完全に消費者思考で生きてきたから。僕以外の学生は今まで聞いたことのない人物を挙げ、当たり前の共通認識として楽しそうに、academicに会話をしている。僕は蚊帳の外である。僕が今まで見てきたものは一体何だったのだろう。ニッチな分野であれば有るほど教授は喜んで学生を評価する。そんな所まで知っている学生こそ一眼置かれ、対等に話ができるレベルに上がるらしい。もう僕は生きてきた全てを否定された気分だ。4年間の劣等感は止まらない。死んだような4年間だった。僕は高校の時から、人格も変わり果てて100億倍成長したと思う。高校の同級生に会うたびに高校生の時の素直な雰囲気のぼくの方が好きだって言われるんだ。ぼくは歪んでしまったのか、わかんないけどとても強くなったというか、戦う為に1人で強く成らざるお得なかった。

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「休んではいけない」という罪悪感と劣等感が常に渦巻いている。消費者になってはいけない。こうしてブログを書いたり、絵を書いたり、裁縫をしたり、有益な情報を探したり、何かを常に生産すること以外許されない気がする。「休む」というのは僕にとって、心が解放されてストレスが発散されている状態ではない。ぼくの心は全くもって晴れやかではない。常に「逃げている」という焦燥感。その不安定な状態が僕のものを作る上の原動力だとしたら大其れた皮肉といったものだが、クリエイターはそんな所なのかもしれない。クリエイターはかっこよく見えがちだけど、自分が可愛いくてプライド高くて人間性に問題のある人ばかりだから安易に好意を抱かない方がいい。いいもんじゃない。全部反比例してんだよ。だから良い作品を作る為に、僕はもっとメンタルがボロクソになってクソな人間にならないといけないのではないのかと思ったり、どっちが有るべき姿なのだと葛藤しているのだけど、まあ色々終わってる。健全ではない。

 

(創造力は不幸力 2019/06/5) “¯lƒQ[ƒ€»ì‚ÌS—Šw@‘æ‚Q‰ñ

限りない承認欲求を健全に創造力に変換できたらいいのだけど、普通は挫折するかふて寝なんだよなあ。創作も一旦疲れたら離れた方がいいとも言うし。結局、自分がそれを許すか許さないか、っていう本当にメンタルコントロール次第でどうにでもなる。

 

私が本当の意味で解放された状態、つまりは「幸せ」になる時はこのブログの終焉だろう。ここまでしてわざわざ自分や物事について考えなくてもよくなったらきっと現実はうまくいっている。物書きは本質的に「不幸」だ。

 

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蛇足。 

生きる上で本当に大事なことは誰も教えてくれない。経験上、僕はもうわかってきた。良い歳した大人はみんな大事なことを隠している、あいつもあいつもあいつも。

純粋な子供に教えてあげたい。誰も信じるな、親も信じるな。自分しか信じるな。僕が大学のアルバイト中にいきなり人生論を語られたバスの運転手に言われた「誰も信じるな。」という言葉はあの時はイマイチ腑に落ちてなかったけどだんだん落ちてきた。あの人にも僕には知り及ぶことのない数十年の"経験"がきっとあった。学校教育的には大変不道徳的な言葉だが、この一見冷たいとも思われる言葉を敢えて、僕に「伝えてしまう」というのは逆説的に自分の事も信じるな、と言っていることと等しい。

最近見えてきた世の真理、景色がある。まだ僕の歳で語るには世間が狭すぎると言われるのかもしれないけれど、本当に大事なことはすべてネットの人に教えてもらった。親でも先生でも身近な人でもない。全く関係のない外部の人の方が余程ぼくを救ってくれたと思うのだ。身近な人が役に立たないと言っている訳ではないが、現実の利害関係が多少なりともあって関係を崩しにくい人物というのは本音を言いづらい、というか本当に大事なことを隠している気がしてたまらない。それがむず痒すぎて、色々爆発してきた。隠すな!!!!言え!!!すべて言え!!!!関係なんてぶっ壊れていいから、お前の本音を話せよ!!!!!!本当はこうなんだろ!??!??!?!?!?!??!?!、と。