「すごい」という気持ちは何処(いずこ)

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すごい、すごい、すごい、すごい、すごい、すごい、すごい、すごい、すごい

 

目次

  1. 「すごい人ら」と対等にはなしをしている自分

  2. 「会うべき人」

  3. とんでも拍子で「憧れ」の人に会う

  4. 「憧れ」に疲れた

  5. 「告白」

  6. 「心配事」

  7. 「すごい当人達」は実際のところ

 

「すごい人ら」と対等にはなしをしている自分

みんなすごい、すごい人多すぎ。初めて入った会社は、自分が「すごい」と思う人ばかりで、具体的に何をしている人か覚えてないけど兎に角、日本のトップで「すごい」ことをしている人たちなんだなという気持ちになって、その空間に自分が居てしまっていいのか、という葛藤と同時に平等にいち社員として接してくれるみなさんに対して、へり下りすぎるのもまた失礼なのではないのか、という自分としてはどうでも良くない気持ちと、社員としては非常にどうでもいい気持ちでいっぱいになっている。ここで余所余所しくしすぎるとまた、大学の二の舞だ、、、と恐怖でいっぱいになり、ローゼンメイデン桜田ジュンの学校への畏怖とまるで変わらない気持ちで居る。

チームの一貫として、社会を形成する人間として、この大多数の人たちと仲良くしていかないといけない。ここで良い人の皮を被らなければ私の化けの皮が剥がれ社会に疎外される。私はここでどういう「人」として、どういう立場として、「何者」として振る舞うべきなのだ?。一向にして自分が分からない。「嫌だ」という気持ちが先行して目の前の事に全然集中できない。人が怖い。フロイトに影響されて更に頭のおかしい人間になった。目の前に見えている現実は本当に現実のものなのか?この顔は本当にこの人なのか?ヤバイほど自我が消えそう。メンタルの居座る場所がない。自分がおかしい人間だって分かっているから、メンタルが居座って集中してしまうと完璧に人間をシャットアウトする空気を纏うことを知っているから、落ち着いてしまってはダメなんです。そして、それをアクティブな人はボーッとしてるように見えると言うことも知っている。

 

ひとつ、私は感じた。この全くもって遜った感情は大学の時に感じた「劣 等 感」だ、、、

しかしここは学生の時の環境とは全く違う。会社は教育機関ではない、もう終わったのだ、商業資本社会だ。同じ仲間として、見てくれている。勝手に遜って、勝手に色眼鏡をつけているのは自分だって気づいている。もう学習したのだから。だが、劣等感ばかりを感じて逃げの姿勢に入っている自身の気持ちの揺らぎも察知できるようになってきた。逃げていたらいつかメスが入るであろう、緩い世界ではないだろうから。

(この言い方は好きではないが)レベルが低めの所属でトップになるか、東大に入るけど成績下位みたいなやつで、私は後者になった訳だな。所属の名前だけがでっかくて、外では粋がれるけど内では小さいやつだ。あ〜惨めだなあ。どうしたって階級社会からは逃げられない。

 

会うべき人

大学はまるで人と関わって居なかったし、(いや、バイトやサークルで全く関わっていないことはないが)、面接とか次のコミュニティ探しの努力期間を経て、自分を晒け出して、本物の自分に合致した人に会い、やっと会うべき人達に出逢うことができたという表現でいいのだろうか。己が信じた道に進んで、本当に良かったと思う。そして、これからこの人らと一緒に私の経験を用いて、道を作っていくのだ。

 

とんでも拍子で憧れの人に会う

今年は正直「憧れ」に会いすぎた。憧れの人、憧れの町、これからも「憧れ」に会ってしまいそうなのだけど、良い意味で現実を知るたびに私自身の強烈な「憧れ」という気持ちは一体どこから来て、何処へ流れて行くのだろうか、という気分になる。地に足が付かずして、常に不安定であり、心が宙に浮いており、今の気持ちを表そうとするとどうにもポエミー染みた文体になっている。取り敢えず今は自分の信じるままに、今までの私の記憶・経験・知識を信じて、成るように、なる。私の頭脳だけはいつも味方だから。頭脳だけは絶対に裏切らない。私の中から飛んで行った「憧れた」先にいる人々に実際に出会い、現実を知り、自分から無くなったものを取り戻すための旅に出る、といったイメージに近い。嗚呼、ポエミー。具体的に話せないのか、話したくないだけなのか分からないけど、概念で話した方が楽しい。只それだけだ、、、。

 

「憧れ」に疲れた

何かに憧れることに疲れた。今はただ単と仏のような気持ちなのである。在るが儘を受け入れ、もう余分なものは欲しないし、手を出さない。もうこれ以上フィルターに洗脳されないように、振り回されないように、自分を律して、この目で判断し、気高く生きたい。

 

「告白」

今年はなんだか、沢山告白をしている気がする。就活とか、就活とか、憧れの人とかに対して本気というか、もう包み隠さずに直球でエネルギーを抑えずに言わなくてもいいかな、と悩むレベルなら全て相手に伝えてしまう勢いで生きてきた。

自分の特性は人間関係の希薄さからだんだんと学習してきたので、まあ言える事は言える時にガツンと言ってしまおうといった次第でプレゼンや紙媒体のような一方的な機会があれば全部ブチまけてしまうただのコミュ障である。それを言った上で食いついてくれた人に対しては、私も全力投球でお返ししたい。この「根暗さ」というものは人対人といった会話コミュニケーションを介していないからこそ、文体として、作品に昇華されているからこそ、面白いものに仕上がっていると思うが、コミュニケーションにこんな暗い話を持ち込まれたらひたすら反応に困るであろう。当たり前だが。じゃあ、暗い話は一体どこで話すんだよバカ。やっぱり此処しかないじゃないか。理解できない人は僕と悩みのベクトルが違う。

同世代は真剣に聞いてくれる人は割と真剣に聞いてくれる事が分かってきた。しかし、更に上をいく人は、この「根暗さ」を純粋に聞いて笑ってくれる。「暗さ」を笑い飛ばす、これが出来る人というのはどういう人なのだろう。まだ此処まで到達していない僕はそのような人達を計る事ができない。僕は常に余裕がないので(若年層に心の余裕のない人はあまりいないと思うが(社会的昇進の意味で))、余裕のある人がとても好きです。余裕のある人は王たる器をとことん感じるし、進んで話しかけて水のように癒着していきます。この意識の尖った残念な僕を、ママンのように、パピーのように、笑っちゃってくれる人と一緒にいる時が最高に心地が良い。1番救われるというか、(プライドが折れるとか軟弱になるとかそういう事はないと思うけど)僕自身が最も健全に野比のび太になれる。

僕は良い加減救われたい。いや実質、少しずつ救われてきた。辛い期間を経て、そこそこ屈強な人間にもなれたはず。辛い時の対処方法、逃げ道、回復方法はある程度学習したし。苦手そうな人はとことん距離を置くし一切関わらない。私は自身の観察眼を信じている。ダメな人は最初から分かるし、良い人も最初から分かるから裏切られた事もない。余分な事は考えたくない、もう面倒くさい、駆け引き面倒臭い、そもそも得意じゃねえ、そんな事にリソースを割きたく無い。在るが儘に生きるぞ。

 

 

「心配事」

「すごい人」とばかり関わっていると、自分の地位がなんだか上がったような気がしてしまう。いや、というか私は極悪人なので、すごい人の苦手なことを会話をしながら探って、自分を少し安心させている節がある。私はこれからきっと自身の経験談を必要とされて誰かに何かを話す時に、この人はああだ、あの人はああだ、と知ったような口を聞いて自分の人脈自慢をするような人として中身のない、比較的疎まれる人になってしまいそうで怖い。まあ自身のネガティブ要素が消えることは一生ないので、完璧傲慢野郎になることは絶対ないが。しかしながらも、私のクリエイティブは現時点で文字を記入することでありそれまたエッセイであるので、あまり創意工夫をしていないのだ。これで私の「自分磨き」なるものの補強が一体されているのかというのが問題である。

この駄文がインターネットに残って、今後一体何に活用されようというのか。私が「すごい人」になった時のための20代最初の記録書にでもなっていつかの参考資料に成り得るのだろうか。

 

 

「すごい当人達」は実際のところ

みんな伊達に自分らの成し遂げている「すごさ」に気づいていないんじゃないか。

どれだけすごいことをしている、と消費者視点で夢見がちに思っていても当事者達はいち社会人であり、意識としては、普通のサラリーマンと同じように「責任」を持って皆さん働いている。毎日がキラキラしたような日々ではないし、普通に淡々と日は過ぎていくし、み〜んな普通に人間なんす、、、、、。

 

上には上がいる、という悩みはどこに行ったって付きまとうし、何だかそこで悩んでいたら一生かかって微妙なネガティヴ抱えて生きるだけなので、やはり考えるのが大層無駄に思えてきた、、、。ので、私は今ある環境をただ大事に目の前の人らと仲良くすることに決めた。と綺麗事を言うパリピ人間が使うセリフを使う。

 

三角ピラミッドはどこまでもネガティヴ要素の塊ですな。競い合って苦しむことを本当に辞めたい。苦しんで産んだものって、少数を犠牲にして、後の世に生きる大多数を救うものなのでしょうか。後の世に生きる顔も知らねえ大多数の他人の為に自身を犠牲にすることこそが「善」とされるのでしょうか。嫌です。動物のように、虫のように、ただピュシスのままに生きたい。

◼️1年前の今日を思い起こす

  1. 資本に適合しないで欲しい

  2. あれから「成長」したのか

  3. 認められたい「凡人」

  4. inner child

 

1 資本に適合しないで欲しい

あなたがインターネット世界でみるみる成長している内に、現実に生きるしかない私は何が変わったというのか。自分は何も変わっていない(様に見える)といった認知は自己のメンタリティは常に不安定であり過去から現在までの自己経過を先から先まで見てきたからこその判断であるが、部分的な努力だけを知っている人から見えたら1年前と比べると結構成長しているのかもしれない。認知バイアス

私が見ているあなたもまた、あなたのたかだか一部であり知らない部分をまた、妄想で補っているという時分だ。あなたは頭が良いから、自分の売り方や強みをよく分かっている。たまたま性格特性上、一点直下型な出力技法が多くの人にとって認知しやすいものであったから、という理由もあるだろうが、私はただあなたが資本主義にどんどん適合して行っているのが怖い。時代に求められる方向に進もうとしているのは分かる。その方が売れるから。技術という社会レールに乗っ取っていない個人の感性的アートは商業をする上で重要視なんてされない。技術があって初めての認知だから。

そんなあなたを如何にも心配しているかの様に、売れる作品を作るようになったらクリエイターとして終わるという迷信を当てはめているようだが、私の表面的な答えとしてはそうである。だが、私はそんな人の心配を心からできる善人ではない。というか人間が善人ではない。私は人の行う「善行」を日常生活全てに置いて信用していない。1周回った「利益」の獲得の為の善行である。まあ、本人がどれだけ狙ってしているのかはいざ知れず、それを無意識的に行なっていたとしても、私がこうやって批判的な論調で「善行」を行う「善人」を非難しているのは自身の人間の器の小ささの露呈と思われても致し方ない。

言ってしまえばただの「嫉妬」。私に出来ないことをあなたが成し遂げているから、羨ましくて仕方がない。そして、私はそれを立派な論調じみた正論らしきものを掲げ、あなたの成長をただただ引き摺り下ろしたい。幸せにならないで欲しい。私は現実の貴方を知ってしまったから、私の知らない世界、界隈で水を得た魚のように生き生きとしているのが嫌だ。独り占めにして、枯れた干物ギリギリにまでにしたい。これは流石に言い過ぎだけど。性悪説だよ、どうせ本能なんだから。

 

2 あれから「成長」したのか

では、私の一体どこが成長しているのか。私は物事をすぐに取り入れるのが上手い方ではないが、1度取り込んだら、一生レベルで消えないタチなので何かが変わっていると信じよう。まあ、このブログの初期と比べると身の詰まった文章を書けるようになったと思う。しかし、メンタルレベルでの喜怒哀楽は常に現在、「今」に重点を置くことばかりであろう。どれだけ時間軸が変わろうと、今が常である。思いを過去に馳せることがあっても。その時点で、気分のムラによって自己評価を下そうとした所で、正常な判断がどうも出来ていないと思う。

「親が私を認めない」、「社会が私を認めない」、この二重苦は私の「認められたい」承認欲求をますます加速させるものであるが、幼少期のベースがすでに資本主義体制に整っていることから、頂点にでも君臨しない限り永遠に不幸せであることは決まっているので、下手に不満足で凡人に成り下がるよりかは、どんな手を使ってでも他人に強烈に残る様な「体験」を脳裏に焼き付けてやり、私、という人間を「認めて」もらわないといけない。これは今書いてみて思ったのだが、犯罪者の発想である。やっぱりこういう所なのだろう。それを冷静に判断出来たかどうかの違いくらいだ。

 

3 認められたい「凡人」

これは、「呪われた」ことを自覚して健全に自己を回して、運営していくしかない。犯罪者にはなりたくない。そこまでして、捨てるものはない。心配してくれる人は辛うじて周りにいるから、迷惑はかけない。如何にもヤバそうな人を演出しているが、私は極めて「凡人」であり「一般人」である無知の知と同じニュアンスで捉えてくれればいいが、わざわざコレを言っている、ということは自分をそういった人間として「演出」したい、という作者の心理状態を常に忘れてはいけない。その裏側まで読めないバカがまんまと情報社会に淘汰されていくのである。そして、バカではいけないとも言っていない。私もただの凡人だ。

 

4 inner child 

インナーチャイルド

常に脳裏を駆け巡るワード。私はこれを心に宿した人を微妙なニュアンスまで測るのが得意になってしまったような気がする。そういった人と  は全力でぶつかりに行くのだ。だいたい私の判断は合っている。中身の薄い社会性だけ身につけた人になっていはいけない。つまらない人間になってはいけない。時間をかけて私を知って欲しい。君たちを知りたい。そこから純に順に派生した性欲なら許す。理解できる。それ以外の性は不純だ。社会性の身についた大人の作った「性」だ。それは相手をモノとしか見ていない。何にも分かっていない。私も分かっていない。だから、せめてそこまで到達してくれ。

 らくがき

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既卒無職終了 〜地方から東京に出向いて身についた事アレコレ〜

即落ち2コマのような展開です。

第一志望になんと受かりました。

 

 

このブログ、無職からの奪還劇を売りにしていたのに、4ヶ月でネタが回収されてしまった。ほぼ1クールアニメじゃねえか!!!!!!!!僕が既卒になってブログを始めた時の心意気というか、当初の予定としては早くても1年、2年くらいの長期スパンで人生逆転起死回生劇をつらつらと書き殴って、お涙頂戴、友情・努力・勝利!!なシナリオで進む予定だったのに、1年経たずと終わっちまったよ!!!浪人生よりも短いわ!!!

いや!まあ!良い事なんですけど!?そりゃ!数ヶ月足りとも興味のない仕事したくないって自分で言ってたし、書類落ちると毎回絶望するし、進路が決まらないバイトのない空白の休日の方が余程かストレスで禿げるオーバーヒートだったけどね。人生のシナリオ的につまらないってだけだ。簡単に報われすぎた気がしてしまうんだよ。もっともっと苦労した先に叶えるべきものであると思っていたから。難易度は職種にもよるかもしれないが、、、。

 

頑張って適合しましたよ。会社っていう資本に、適性の職種に。合致したんだかしてないんだか、現実の自分をただ只管見つめることしかできない。それが凄いことなのか、大した事がないことなのか、もう分からないのだけど、ただ自分の努力した「つもり」になっている過程から徐々に「当たり前」っつーか、ニュートラルな状態にまできているから、結構淡々としてるんだよなあ。たぶんこれがモチベーションとしてはベストなんだと思います。

最終面接まできていた時点で既にヒャーヒャーヒイヒイなっていたが、落ちるとまた人に落ちた連絡をする事がもう嫌だし、慰めてもらう事しかできなくてひたすら微妙になってしまうので、もう何も言わねえ、期待しねえ、1人で始末をつける、とこうやって気持ちを文章化するとまるで武士のような戦い方をしていたのだが、人に語らずしてある日唐突に内定通知が来た。

 

きつい事が最初から分かっている業界に足を突っ込む事、そして、田舎から誰もが憧れる東京に上京する事、内定報告から必然的にくっついてくる、あからさまに頑張っている方向に向かっている「感」「人」。私自身のメンタルはいつだって真下に行ったり頂点になったり結構情緒不安定なのだが、1人でいる時は特に立ち位置が不明になっている。生活習慣や見る物、読む物、知識を入れるべき所は2年前からかなり変わっているはずなんだけど、僕の今まで過ごしたごく一般的な「普通の人」の人生の価値観は「経験」してしまったから崩せない。久しぶりに親戚などと話しをすると、自分は変わったのかな、と会話をしながら思う時がある。会話のテンポとか語彙の引き出しとか出てくる言葉が昔と違う気がする。大学であらゆる生活場面で今までの価値観を否定されて(されたように勝手に感じた)、自分自身がそちら側に価値観を合わせるように、自分の「今まで」を全部消して(滲み出て消しきれてないだろうが)そういうもんなんだって、苦しいのが当たり前なんだって、騙してきた。おかしいものにおかしいと断言できるだけの力が私にはなかった。家族および親戚一同は何も変わっていないのに、私ばかりが勝手に変わっていて、めちゃくちゃ解離しているようで、私は一体どこに向かって何者になろうとしているのだ、と悟り戻ったのだ。相手からいつも言われる言葉は、よく分からないけど頑張れよ、といった具合。この人達は私の実質的な社会的成功を納める上での「力」にはならないし、僕ばかりが勝手に頑張って、辛い気持ちになって、私は一体何と戦っているのだ?社会に相手にされなかったら、僕は一体どこで誰と戦っているんだ?その、「戦」を僕自身がしていることを再確認・理解するためのものが就活、面接だったり。本物の戦は社会で動くようになってからなんですけどね。楽に引き上げてくれるような神様の様な都合の良い味方なんていないし、戦いたくなかったら別に「戦わない」という選択肢だって勿論あるのだけど、私は「戦っていない奴」が嫌いなのだ。能天気で賢くない奴と一緒にいたくない。一切の能天気さを取り払って、常に真剣な人と関わりたい。僕の今の理想像は「馬鹿に見えるけど常に楽しそうな賢い狂人」。「楽しいキチガイ」これ、これが1番かっこいい。何故かというと表層に現れていないから。「想像力」が無いとその人の行動原理と内側まで知ることが出来ない、「読める」人間であるから。「読む」面白さの無い人間に何の価値もない。そして、僕の価値を表層から一発で読み取れない人間も価値がない。

1番ムカつくのは同じ経験をしていない人間に知った様な口を聞かれる事。しかし、私が向いてきた方向と同じ場所を向いている人らに共感して貰えた時はこの上ない「仲間意識」を感じる。私はいよいよ、狭い狭い所に入ったのだなと思うのだ。誰も経験しない領域にどんどん入って行く代わりにどんどん孤独になって、狭い空間でしか生きることが出来なくなる。別に行かなくてもいいのにさ。けど、やっぱり気になるから死ぬ前に1回足を踏み入れたいのだよな。

 

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就活を経て身についたことがある。

  1. 履歴書の書き方マスター
  2. 高速バスマスター
  3. 東京銭湯マスター

結構人に教える事ができる自信がある。これについて、語ろう。

 

  • 履歴書の書き方マスター

1・1年前、初期

初期の自分が書いていた書類の文章をもう覚えてはいない。壊滅的な文章ではなかったと思うが、就職支援の人には自動詞と他動詞の使い方が混合していると言われた。今だってめちゃくちゃなことを書いているだろうが、1年前と思えば文章能力は恐ろしいほどに上がっていると思う。日常生活でさえ、文字が浮かんで仕方がないからだ。こうやって書け、と言われて散々添削された文章を何度も何度も書き直して完璧な、優等生の、テンプレート的な、何の尖りもない、毒のない、丸みのある、物語性のある、起承転結をつけた文章に直されてきた。びっしり、黒い文字に覆われた四角を人事は逐一丁寧に読みさえするのであろうか。もし仮に100くらいの書類が送られてきて、その中から選別する作業だとしたら、私だったら、面倒臭いから絶対丁寧に読む気にならん。が、それでも否応がなしに私はそう鍛えられてしまったので、何かと書く文章量は必然的に多くなってしまう。

2・読ませる文章

文量が多い事のデメリットは中身の薄い小学生の作文の様な熟語を無駄に書いて量を膨らませたものが読む気のないものにさせているだけであって、着地点がしっかりと定まった物語の順序が具体例を伴って記されていれば倫理能力の確固たる証明になるのである。しかし、世の中には文章を書くのが苦手な人も沢山いる。文章の下手な人、というのは私は評論家でも先生でもないので一概に指し示してはいけないと思うが、読む気のさせない文章は一般投稿の新聞コラム4行くらいで大体わかる。あ、頭の良くない人の文章だ。と、すぐに読み飛ばす。たぶん、採用人事の判定基準だってそんなものだろうよ。

けど1番大事なことって、どれだけ優等生的回答を上手い事を並べた所で、読み手の心に訴えかけるものじゃないと何にも意味ないんですよね。採用担当者は、企業様異世界宇宙人じゃないんです。やっぱり求職者と同じ人間なんです。こう書かないと落ちる!こうやってこうしてこうして書けってキモいテンプレ腐るほどありますけど、な〜にメディアにコロコロ踊らされてるんですか。たいした仕事もした事のない学生風情が一丁前に横文字や業界用語を語れるのは文章で限界だわ。そんな恥ずかしい言葉を面接で口語にすると思うと聞いている方も居た堪れない。言うもむず痒くなって言えた試しがないわ。にも関わらず、その恥ずかしさも分からずに平然と言っちゃう子は5年後に黒歴史にして馬鹿にしてやりたい。ア〜恥ずかし〜〜〜。知ったかぶりほど恥ずかしいことはないっすわ〜。

3・人心掌握を知れ

 で、訴えかけるもの、強いては印象に残る文章、というのは、超個人的エピソード。これに限る。逆にこれがなかったらすべて無なのでは?やっぱり当たり障りのない事書いたってダメ、適当に数打つとか、あんまり入りたくないけど取り敢えず送るとか時間の無駄だから止めろ。単純に給料とか休日の量で考えていて、本当に拘りが無いなら良いんですけど、入りたい会社あるけど関連した業種受けておくなんて事をしても、やはり自分の気分が1番に乗らないし、どうせ面接で伝わるし、自分が面接官の立場になったとしても、よほど人手不足で無い限りそんな人に入って欲しく無いだろ???入りたい所は努力して自分のレベルを上げるしかない、僕から言えることは以上です。

御社と僕の「繋がり」、共通点を愛を込めて赤裸々に語ってしまった方が良いです。告白というものは真っ正面から恥ずかしいセリフを堂々と言ってしまった方が、相手の心に刺さります。書類から相手を口説いてください。口説くことも出来ない人は恋愛及び、コミュニケーション能力がないです。これが出来ないということは、相手の気持ちになって物を考えることが出来ない、という証明になります。人心掌握です。そういった意味では、消費者つまり自分が仕事によって生み出した「価値」を消費して金銭を払ってくれる人の気持ちが分からない=「価値」を提供することが出来ない人間、ということなので資本で成り立つ仕事上、使えない人間ということで淘汰されますね。

最近、若者が恋愛をしなくなった、と言いますがこれは非常にヤバいです。特に私の大学ではジェンダーの薄い人が多く、心理学の授業アンケートなんかでも、異性に恋愛感情を抱いたことが無い、という人が他大学と比べ多いということを言っていました。趣味、教養という意味で個人能力を延ばすには文句は滅相ございませんけど、金を稼いで生きていく人間という以上、人の気持ちが分からないということは致命的欠陥です。その様な人が、技術屋になっていくのでしょうか。

 

 

  • 高速バスマスター

高速バスに乗ったことがなかったので就活以前は未知の領域であったが、数々の面接を繰り返し僕の使うバスは徐々に固定化されていった。新幹線で行くのとバスじゃまるで違いますからね。親がお金を払ってでもくれない限り学生は基本的にバスでしょう。新幹線8900円とバス1900〜4800円ですから。月に2、3回も面接をしていたら数万無くなります。

まず、名古屋から行く場合、バスの種類が郊外と比べて沢山あります。1番メジャーなのはJR東海バスさん(https://www.kousokubus.net/BusRsv/ja/)ですが、名古屋からの直行便などもあるため、停留所が高速ICから乗るバスよりも1時間に数本走っています。その代わり利便性が高いため、人が多いです。平日でもお隣さんと5時間を共にすることはザラにあります。JR東海さんの1番のメリットと言えば、

  • 学割率が半端ねえ所。他社は元値が安いので学割は見かけませんが、JRさんは1000円以上安くなります。
  • ネット割で更に100〜200円ほど安くなります。学生さんで窓口に行ってアナログ的に席を注文する人は余りいないと思うので、ネット予約でしょう。
  • 無名バス会社より席も広くて綺麗
  • 名古屋、金沢、京都、大阪、東京駅共に専用ターミナルがあるので電光掲示板や地図を見れば絶対に分かる。駅前にある。
  • 昼行便が1時間に1本はある

JR以外のバスを使って1番やべえと思ったのは、東京駅の集合場所です。JRさん以外の格安バスはクソ狭い所に収容されてしまうので、人がひしめき合っていて大手の土地の豊かさを思い知りました。アレはさすがにお年寄りなんかが迷っていたら蹴り飛ばされてしまいそうなので、出来るだけ避けたい。バスタ新宿や池袋など東京駅を外した停留所の方が絶対に分かりやすいです。東京は電車の運賃が2、3駅なら162円で移動できるのでどこからでも乗降可能なら池袋にしておけ。

 

数社利用しましたが逐一解説をしていたら長くなるので、オススメだけ書きましょう。※愛知限定

1 できるだけ日帰りで帰れ

面接・合説が午後からなら朝一の高速バスに乗り、昼行最終18:00代まであるから日帰りが絶対楽JRでキメろ。

2 朝面接の場合

新幹線で行け。夜行は絶対にやめろ。まともに寝られる訳が無いので、悠々自適に新幹線で面接の文言をブツブツ言いましょう。帰りは勿論JR昼行バス。

3 次の日朝早く行動したい場合

夜行バスに乗らざるおえないですが、名駅からの格安バスは若者多しで、夜中騒ぐパリピとかヤベー人が居たことは経験上ないので、比較的民度はあると思います。その他バス(さくら観光https://www.489.fm/ WILLERhttps://travel.willer.co.jp/)は女性専用席が選びやすいというか売りにしている会社が多い気もするので、その辺りJRさんよりは安心かと。豊橋発の場合はほの国号(https://secure.j-bus.co.jp/hon/Route/aichi_tokyo)一択。名古屋まで行っていたら交通費の方が高くなるので、ほの国号さんは大変ありがたいですが、夜行しか無いのが悔しいかな。

4 夜行バス朝の過ごし方

そして、1番問題なのが朝5時なんかについて何するのよって困るんですけど、新宿近辺の早朝のチェーン店で時間を潰すのは辞めた方がいい。夜行バス明けの死んだ顔した大人がひしめき合ってて、化粧するにもトイレはクソ混んでるし、とても眠たくなるからです。とてもじゃないけど落ち着いて入られません。面接当日だったら最悪。新宿だと「ワンカラ」という1人カラオケ専門店があって早朝営業12:00まで1200円、完全個室、静か!!!!!!(重要)静か!!!!!!(重要)なので、安心して爆睡も化粧も出来ます。もしくは、目的地が都内から外れていたら、駅前から少し外れた落ち着いていそうなイートインスペースの広いコンビニを狙って下さい中野駅の早稲田の隣のファミマは広くてカウンター席もあり、空いていて最高でした。

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  • 東京銭湯マスター

東京からの夜行バス待ち、となると大体24時まで待たないといけません。カラオケ、漫喫、遅くまでやっているカフェ、など早朝よりは選択肢があると思われるが僕のオススメは「銭湯」です。理由は

  • 東京は銭湯文化が充実しているので、郊外でも都内でも銭湯が沢山。六本木だってある。
  • 24時以降も営業している所が大半
  • 面接でストレスマッハな状態からの開放感と安心感
  • 休憩スペースで待てる
  • 500円以内で数時間居座ることが許される環境
  • 化粧落とせる、歯磨ける

漫喫の数時間パックがバカらしくなってきますね。初めての東京って、みんな冷たい感じがして気分的に怖いじゃないですか。けど、どんなに都会でもオシャレに着飾った若者でも銭湯に入ればみんな同じホモ・サピエンスなんだってことが分かるんですね。巣鴨駅の地下の銭湯http://www.toshima1010.org/sentozyoho/378.htmlはおばあちゃん多くて居心地が抜群。表参道駅の銭湯http://shimizuyu.jp/はバリバリ街中にあるので驚きましたが凝った湯もあって手頃で良い。年齢層が低くて、ピーク時はかなり混む予感がするので原宿で遊んだ人向けかな?

裸になると全ての緊張感から解放されて、家のような温かみを感じるんですよ。どれだけ文明が発展していようと、東京人もみんな僕と同じ人間だ〜^^って。どうせ遠出する時くらいしか銭湯なんて入る機会ないだろうし、折角なら銭湯に行きましょう!

 

「夢」を少しづつ擦り潰していく。

「夢」が「現実」に近づいて、また「夢」が「現実」に近づいて、そうやって少しづつ見えなかった景色が現実となり一体となり、何十年先と経験が蓄積されていったとしたら私に一体何が残るのだろう。

 

 自分に言い聞かせていることは 敷居の高いものなどない。

強烈な「憧れ」の先に待っているものは・・・

 

 

 目 次

  1. プリキュア」へのあこがれ

  2. 「遠くの高校」へのあこがれ

  3. 「名古屋」へのあこがれ

  4. 「神絵師」へのあこがれ

  5. 「東京」へのあこがれ

  6. 「国内」に満足したら

 

 

1 「プリキュア」へのあこがれ

幼少の頃、僕はプリキュアを見て大人になったらプリキュアを描く人になる。そして東映アニメーションに入りたい、と小学生ながらに思った。仕事をするなら「絵」に関わる仕事がしたいな、と思ったので絵が上手になるために通信制の講座を受講したりして、なんだか将来の目標っていうのは全然見通しがついていなかったのだけど、漠然と、ただ漠然と「大人」になったら成るようになると思って、「何か」を目指すための明確な努力、というものは特にしていなかった。高校の先生に東映アニメーションで業務委託で地方で働いている人もいるという情報を聞いたりして、僕も将来そんな風になりたいなあとか思ったりして、どうやったら成れるのかも知らずに時を過ごす。

いよいよ、僕は就活をする際に憧れの東映アニメーションを視野に入れる訳だが、調べていくうちに倍率の余りにも高さとネットの面接体験談など色々見て、完璧に怯んだ。こんなすごい所に入れる訳がない。僕のような凡人が入れる所ではないのだ、エリートしか入れない。卒業間近に少し別の部署に書類を出して面接をした事があるのだけど、面接日を間違えたりして色々悲惨だったのだが、余りにもの対応の優しさに僕は会社の信者になってしまった。メールの返事をちゃんとくれて、フィードバックをここまで丁寧に返してくれた所は初めてだし、大手様に相手にされるとも思って居なかったから、入社はできずとも1歩憧れに近づくことができたというだけでもういいのだ、、、、、。。。

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2 「遠くの高校」へのあこがれ

普通科の勉強はしたくないから、ある程度の学力のある専門性のある学科を選び、通学時間90分かかり最初の1ヶ月は限界を迎えて、定期的に泣いて、不登校寸前だった。学歴階級資本主義適合社会はもう、中学受験からとっくに始まっていたのだ。この誰かが負け、誰かが勝つという「競争」というギスギスした勝負の世界は物心ついた時から無意識のうちに開幕している。

目的を果たそうとするほど、それは「都会」になっていき、場所が遠のいてゆく。

田舎特有さの電車通学への憧れであるが、これはある程度大人になって通勤ラッシュとか経験をこなし慣れてしまうと、ゴミのような憧れである。電車ロマンスなど毛頭ない。ただそこにあるのは疲弊したおっさん達の顔と教室のノリをそのまま公共機関に持ち込む高校生などといったまるで統制の取れていない片田舎の鈍行列車なのだ。

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3 「名古屋」へのあこがれ

地下鉄を乗りこなして、名古屋周辺に住んで居る人はみんな僕とは完全別人種だと思っていた。というか、人間じゃないと思っていた。割と本気で。田舎人の意識と都会人の意識は全然違うだろし、単純に関わりがなくて想像出来なかったのもあるけど、男子が女子のことを異次元の存在と思っている並の差別はあった生きている世界が違う、こればかりである。人口数の多い駅構内を颯爽と歩いていく人々は限りなく未知であり、都会人なのであり、僕は田舎人である。

高校を出て、なんとなく進学するのだ、という気持ちはあった。自宅から通える範囲で学校を絞っていくと名古屋周辺に集中している。高校生になってスマホを所有するようになってから、通学時間はほぼインターネットに浸かっていて、名古屋みさとさんのブログにハマって名古屋の街の生態系に夢を膨らませたりして、私にとってはこれ以上にない大都会に毎日通学できるという事だけで嬉しくて、勉強をするために大学に行っている気ははっきり言ってなかった。勉強する学生という意識はまるでなかった、、、まあ遊び半分で学生するのがデフォだと思い切っていたし、それがFラン大学での学生としての在り方だと思ったから私はそういう意識で居た、と言ったらすごく言い訳じみて聞こえるのだけど、ダメ、ウーマン、ダメ、意識低い系学生。振り返ると最初からそういうもんだと思い込んで、日々の生活を消費していたのがダメだったのかも。

みんなから見て私がどう映って居たのかは想像に及ばないが、普通のごくふつうの突飛のない面白みのない女に見えていただろうか。諸要因は、学校の、大学の、外側つまりは世間の成り立ち、「社会形成」が全くもって見えていなかったのが、私の意識の大きな妨げになっていたのだと推測する。それが見えていた上でもう少し人間関係をどうにかして、付き合い方が違っていればこの微妙な中途半端な空白の大学生活4年間を実りのあるものにできたのかもしれない。「何も見えていなかった」という事実は今の私にとって、限りある「生」の4年を無駄にした、自己実現できなかった悔しさが堪らなくあるのだが、今の私の「見えている」つもりになっている「世の真実」のようなものでさえ未来の自分にとって「見えていなかった」世界なのかと思うとやはり無限回廊になってしまうので、今、現在の、私自身の危機的意識を尊重したい。

兎も角、都会への憧れは私にとって「名古屋」であった。名古屋人になれば、都会の女子大生になってブイブイ言わせて婚活パーティーとか合コンとかたっくさん楽しい事して爆オシャレになって異性関係も豊富になって、明るい毎日が待っていると思って居たのだけど、蓋を開けたらどうだい。あの時の甘い華やかな「期待」から、今このような根暗ブログを書いているような現状は果たして想像できただろうか。婚活パーティーをするどころか、彼氏すら出来ずに終わったし、古着を立派に着こなす超絶オシャレマンにも成れなかった。名古屋にある刺激的な場所にはそこまで手を出す機会もなければ、全然都会に染まらなかった。染まるような悪友も出来ないし、周りの人はもっと良識のある大人ばかりであったし、僕はぼくの築いた理想の女子大生にはなれなかった。

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4 「神絵師」へのあこがれ

絵の上手な人を見て憧れたり、嫉妬をすることはまるでなかった。身近にそんな人と親しくもなければ、別次元の人間だと思って居て、知り及ぶところではない、と思っていたからである。しかし、どんなに上手な絵を描く人とて所詮同じ人間。ツイッターを始めてから、同世代の「神絵師」という者達の日常を知り、思考法を自分に取り込むことによって、自分も「成れる」と思った。というか、自分が何故成し遂げていないのか、という謎の悔しさに駆り立てられる。実際、憧れの人物に出会い、人となりを知り、マインドにかなり影響された。出会ったら想像と違い落胆したという話もあったりするが、ぼくの場合は運良く、完璧にトリガーを引かれた。

上手な絵を描く人というのも、やはり積み上げた時間と努力があるからこその今の力があるし、上手な人にとっても更に憧れの人がいたりするので、幸せとか現状に満足しているか、といったら別段そうでない事は関わってみてよくわかった。僕も時間をかければ、絶対良いものが描ける。他人に評価されなくても自分の中で最高オブ最高、表立って居ないだけ、と断固信じる。

 


5 「東京」へのあこがれ

就活の影響、そして、ツイッター著名人は大体都内に住んでいる。東京に住めば、自然と僕もすごい人に成れてしまうのではないか、という淡い期待で上京したくなるのは、あるある失敗談だと思うが、僕はもうちょっと目標のある人の部類であると思う。彼方でやるべき事、環境を利用してやる事、性格上都会の方が合っている感覚、など住むべき理由とメリットは明確にあるのだ。

都会、あんな所住む所じゃない、と散々親戚に聞かされたが住んだ事もない癖に一体何を言っている。僕はもうそういった先入観は信じないぞ。気になった事は全部自分の目で確かめた上で判断を下す。その都度、環境に合った適応方法をして、誠実に対応すれば、最悪だった経験はほぼない。ダメな時は自分に否がある時。

就活以前は上京する事に憧れは全くなかったし、東京という場所に漠然とした恐怖感を抱いていただけなのだが、それは知らないものに対する恐怖なのであったのだ。どれだけグーグルマップで見ても現地にいる時と感じる印象はまるで違うし、全然怖くないし、名古屋の上位互換なだけである。そう、今まで色々な場所に行ったが、どの街だって都市の発展レベルによって若干の差はあるものの代価可能の互換性のある場所ばかりだ。日本で1番発展した都市でもう「いけるな」と感じたくらいだから、もう怖いものはない。ここは人が多いぶん、ピンからキリまで全部居るから、地方の人間も多そうだし、まさにダイバーシティ。逆に生きやすい。都会に対する消費娯楽欲求も消えたし、あとは、自己実現の為の努力のみ。

           f:id:gogoaopink:20190703012752j:plain(by中野)



6 「国内」に満足したら 

 そして、僕は思った。この小さな片田舎の世界から「憧れ」を抱いてはそれを自分の目で実際に確かめて着実に自分のモノにしてきて、人、場所、所属に対する敷居の高さというのは少しずつ消化していった。国内はもう満足した、と言ったら日本全国各都道府県を回ったこともない癖に偉そうなことを語るなと怒られてしまいそうだけれど、郊外は大体各地互換性のある街で地域ごとに特色が少し違うだけで特に目的がない限り、他に興味を向ける必要はない、と判断したので、満足した、ということにする。今僕に「憧れ」が残されているとしたら、「国外」であろうか。海外の聖地巡礼がしたい。学生も終わり、これからはお金に比較的余裕ができるはずだし、お金で我慢する事はなくなってくるから、やるべき事、成し遂げたい事をやりまくって、勝手に楽しい奴になってやる。ぼくは僕自身が1番よく分かっていないので、もう目の前にあるやった方がいいであろう事を只管やって、必要とされる事に向かって真剣にこなしていけば、道が拓けていつの間にか「すごい人」のレベルになっている事を信じて、とにかく動く。

恐らく僕の最終目標として、自分が「すごい人」になったということを理解するには、やはり自分が憧れる「すごい人」のレベルまで成るように成らないと納得しないと思うので、相手にされるまで頑張り続けるのだろうなあと思う。全てに置いて知れば知るほど悔しさばかりが増してくるので、留まる所を知らないのだが、現実的に考えると体がダメになるまで辞めないのではないか。

私にとっての強烈な原動力である「憧れ」の力は、「相手にされる」ということがキーポイントであるような気がする。勿論、自分の経験値として強みを増していくというのもあるのだけど、それの応用先から、真に自分の力に備わって根付いたと感じるのは、やっぱり「他人に相手にされた」時なのだろうな、と。

どこまでも承認要求は尽きなかった。

大学生活、メディアデザインで卒業制作し思ったこと色々

我々は「作家」を目指していたのか。

 

大学4年生として卒業制作に切磋琢磨していた。長いようで短い1年だった。

 

 

 目 次

  1. 最適な「テーマ」選びは

  2. ベストな「卒制」は

  3. 「作家」について考える

  4. 「大学」は職業支援学校ではない

  5. 出荷先

  6. すごく大学に直して欲しい環境

 

 

 1 最適な「テーマ」選びは

どんなにくだらないことだ、と思っても世の中の事象に「くだらない」ことはない!これは断言できる!どんなに人から見られて恥ずかしいことかもしれないと思っても、樹形図のように深く考察することができるから、好きなことを大真面目に馬鹿になって研究した方がいい。マジで自分の為に。そう、自分のために。

勉強は教授のためにやってるんじゃないんだよ。先生に評価されるためのテーマ選びをしている良い子ちゃんは本当にダメです。あなたは誰のために生きてるのですか?先生に良い評価をされるために生きてるの?そう思うならそうすればいいさ、ずっとずっと永遠に他人に評価される為に生きて、あいつの為にやってあげてるんだとか言って押し付けがましく苦しいのは当たり前的な生き方で人生終えればいいさ。自分のことを抑える事を美徳としてやりたいこともやれずに他人のことばかり羨ましがって、大人になったフリでもすればいい。「やりたい事自由にやれる人って羨ましいよね」とか勝手にほざいとれやア。資本思想に淘汰された人種とでも呼んでやるよ。

 

 

2 ベストな「卒制」は

「作家」は個人の思想に寄り添った感じ、「商業」に寄った作品は技術で評価される、「教授の好み」に寄った教養は教授に評価されやすい。作品のアウトプット方法は学生ごとに全く違うのだけど、(あくまで僕の感じた印象で大学によって特色も絶対違う)大体この3つに分かれる。

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教授が教えてもらった知識かつ評価してくれる作品がベストだと思っているような良い子ちゃんは、無味無臭の私からしたらドクソつまらないものになっているし、商業コンテンツを主軸として卒制を試みる子(主にゲームが多い、あと線画のアニメーションとか)は、技術的な苦労をめちゃくちゃ必要とする割に現実にある商業物とクオリティーの差で教授に努力が伝わらなくて評価されないことに怒る生徒が多い。「作家性」が強い子は、今までの作品や生徒の性格、趣向が教授に理解されていれば評価されることが多いが、衝突すると卒業するまで喧嘩してるかも。

そして、僕のように自身の作家性を就活の面接でアピールすると、どこにも拾ってもらえません。1番思い入れの強い卒制は語らない方が良いレベル。一般企業が特にドン引き。そして、作家タイプなんてたださえプライド高いから面接でマウントとった所で、大学で築き上げた「個」の才能なんて会社様で何の役にも立ちません。はやく会社の色に染まってください。

 

 

4 「作家」について考える

 卒業制作の振り返りは上記過去記事でやった。

僕には「作家」というキーワードがやたらちらつく。大学に入るまで「作家」という世界を全く知らなかった。生きている世界の違う人だと思っていたから、気にも留めなかったが美大生というものは、1人1人が「作家」なのである。誰一人として同じ作品を作ることはない。同じ学びはあれど、作品として昇華させる応用力は個人としての人生観が顕著に反映されているものであると思う、少なくとも僕は。

卒制は完璧に個人で課題を見つけて進める作業なので、僕のような孤独を愛するタイプの人間は作家性が露骨に現れてしまう。自身、作家的な作業の方が作品に昇華する上で非常に楽しく、人間味のない工業製品やデザインなどに全くの魅力を感じない。良さが分からないから。使えれば良い、読めれば良い、物を使用する上で合理性しか求めてないから小賢しい工夫や努力をすることに面白さを感じないのだ。やっぱ、デザイン学部超向いてねえな。技術の向上、表現の幅増しと考えれば身のためになったのかもしれないが、、、楽しくはなかった。現代社会に適合するための努力期間と捉えよう。

 

『作家とは厄介な生き物である』枝豆(2019/6/21) https://ncode.syosetu.com/n0998ez/

断言してもいい。人間は触れてきた作品通りの人間になる。

才能という言葉を軽々に使うべきではないのだろうけれど、分かりやすくそうさせてもらえるならば、作家は才能に振り回された哀れな犠牲者なのだ。才能という乗り物を乗りこなせず、引きずられて巻き込まれて生きている。社会に感動を広げ、受け手の人生を豊かにするために自己犠牲を払っている、なんてつもりは彼ら彼女らにはまったくないにせよ、結果からみれば、それはあまりにも事実であるとしか言いようがない。

▲ ぼくのブログは主観が混ざりがちで雑だが、こちらは結構真理が書いてある。

  「作家」は世の中に必要不可欠ではないし、ほぼ利己的なメリットを占めているので、世に「作家」として認められて初めて、作品を世に出し金銭を貰う権利が発生する。自己以外の思想を強要されたら、残るのは培った技術を惰性として世に提供するのみ、なんだよなあ。金が発生する時、評価をするのは「他人」だからな。

 

 

4 「大学」は職業支援学校ではない

教授の授業は「面白さ」「考え方」を教えてくれるが、それを実現するための「技術」は完全に学生自身の能力、自主性に委ねられている。どれだけ「考え方」をインプットした所で表現者として相手に伝わるように表現しきれていなければそこに作品としての価値はない。「アイデア」を純粋に評価するべき所が、最終的に教授に評価されるものというのは「クオリティの高いもの」なのである。

外部に紹介した時に自信を持って人に見せることができる作品だ。考え方の工程など他人にとってはどうでも良いことなのだ。しかし、教授が評価しなかったら誰がする。教えたれたことを淡々とこなし、テストで丸を打つような模範解答だけを評価していたら今までの義務教育となんら変わりないじゃないか。技術が1人前に伴っていることが前提で、それができて初めてスタートラインに立てるのだとしたら、学費を何百万と払ってこの学校は一体何を教えているんだ。4年間通い身についたものは中途半端な技術と無駄な作家性の意識の高さの植え付け。世間に適応する応用力、実践的な力、実務的な仕事に使える考え方はほぼない。全部、狭い世界の共通用語として鼻高く生きていくための「教養」。

こんなのニートになって当然だ。無駄に生きている世界の違う上流階級の教養を齧って、劣等感を植え付けられて終わったな。こんなん技術だけ身につけるのだったら、独学で学んでいた方がよほどかメンタルを健全に維持できた。

 

今でも昨日のことの様に思い出す。大学1年生のコース専攻の見学の際、先輩たちに決まりきってこう聞くのです。「卒業後の進路はどうなりましたか?」

先輩になった今、思います。こんな残酷で無知な質問をしてはいけない。ここは卒業後の進路、大多数の一般人が想像している「就職」っていうゴール向かって勉強をする所ではないのだよ。将来「金」を稼ぐために勉強しているんじゃないのよ。「自分」の頭で「考える力」を身につけるための勉強なのよ。大学は自分との戦いなんだ。けど、大多数の一般人は勉強すること=いい会社に入ってお金を稼ぐことが常識として、苦労して勉強した先に金を持つことが「良いこと」とされているのね。僕も就活以前は卒業して、普通に会社に属してお金を稼ぐことが普通の行為だと思っていたから、まさか無職になるとも思わないし、ぶっちゃけありえな〜いと思っていた側に自分が成ってしまったことに「何故こうなったのか」という問いを問い続ける。

だがしかし、金がないと当然生きていけないよな?大学だって多額の奨学金を背負って社会に放り出される。世の中は「金」ですべて動いている。黙っていても生きているだけで金が要求される。では何故、その「教養を学ぶための大学」が「金稼ぎを目的としていない」のに「多大な学費が必要」なのかというと、最初からお金を持っていることが前提だから。

あ〜〜〜残酷残酷、大学は義務教育じゃないからね。営利活動ですよ。全入生にして、学費を搾取するだけしておいて上のおじさん達が潤沢な利益を得るためのものですよ〜。貧乏人は話になりませ〜〜〜〜〜ん!!それでも大学教養を学びたかったら入れてあげるけど、何十年も生きて働いてお金を利息にして返してね〜〜〜♪って話。長年生きて働く代わりに大学に適合するのか、倍率の高い大学に猛勉強して低価格で適合するのか、どっちかっていうのが私立と公立の違いって所か、、、。

 

 

5 出荷先

そうして、一流になれる訳でもないデザインを学んだ先に何を進路に選ぶのか、というと「デザイン土方」だろう。今は世に煩いほど広告が溢れかえっているから、仕事も多いらしいし需要はバッチリある。会社で1から無知な人間を育てるよりも、大学である程度分かっている奴の方が効率がいいに決まっているから、こだわりのない人は勧んでデザイン土方を就職先として選んでいくのではないのだろうか。

そして一方、劣等感と中途半端に作家性を植え付けられた人間は、世の中に鋭い視点でメスを切り込んでいくのだという謎の使命感に駆り立てられ大学で着実に育てられた承認欲求および自己実現を達成するために自我が芽生えるも、社会に出た途端そこはやはり資本で動いている社会であり、知名度、人脈、出身大学、で1人の人間の存在が選別されることに絶望する。もしかしたら大成するかもしれない、という僅かながらの希望を胸に抱き永遠に苦しむのだ。

 

 

6 すごく大学に直して欲しい環境

最初から感じていた「違和感」なんですけど、なんで、この学校は、学生を、褒めない??? 

昭和か?????

生徒同士も最初みんな「敵」って感じだったし、仲間内感半端ねえし、こちとら蹴落としあって自然と伸びるようなドMじゃぬねええええええええええええええええええんだよ!!!!!

いや、高校の時とかもっと専門性のある人がバラけていた時って、クラスで絵が上手なだけでもすごい!って褒められたじゃん。何か作っただけですごい!って先生が褒めてくれたりしたのよ、ぼくは。大学入ってから、どれだけ課題をこなしてもどれだけ自分なりに頑張ったとしても、そもそもの初期値が低いから、できて当たり前みたいな空気がめちゃくちゃあったのね。そして、学生同士もお互いの作ったものに対して、こんな風に作ってここに苦労して頑張ったとか、いつも興味なさそうだし、ほんとマジやべえよ。どんだけ1人で鍛え上げられてメンタル強いのよ。この空気にめちゃくちゃ違和感を感じていた。生活のほぼ大半を占めている制作活動の話を「しない」というのが謎すぎる。まあ、僕の知らない学校以外の場所で仲間内でしていたのかもしれないけどさ、、、、。そしてこの違和感を大学内で叫ぶこともなく、ブログに書いている時点で負けている。

 

高度経済成長真っ只中の昔の人が、怒られて伸びる教育をされて上手くいっていたのは、その先に頑張れば「報酬」が待っている希望があったからなんだよ。おい、平成令和、お先真っ暗だぞ。見返りのない、漠然としたものに誰が喜んでわざわざ怒られて頑張ろうと思うんだよ!アホか!?

褒められたら嬉しいに決まってんだろ。大人気持ち悪すぎ。利益のある「消費者」「取引先」にはあんなに笑顔で褒めるくせに、社員とか生徒とか仲間内は全然態度違うし。「金」としか思ってねえだろ。自分と同じ「人」となんてまるで思ってねえ。こんなんだから、「物」ばっか豊かになって、資本主義に負けた人間が自殺してんだよ。キャバクラのやばさがよく分かるわ。

 

クリエイター失格

人間失格

 

 目 次

  1. 私はクリエイターに向いていたのか

  2. 彼女はクリエイターに向いていたのか

  3. 幼少期のクリエイティビティのバイタリティ

  4. 「 Life is Desin 」

 

 

1 私はクリエイターに向いていたのか

定期的に悩む、自分がクリエイター に向いていなかったのでは問題。何も作っていない人が自分の向き不向きについて語るのは反感を食らうだけだが、僕はまだ「作っていた人」なのでこれについて考える「権利」がある。では、向いている、向いていないという判断は一体誰がするんだ。自分自身が判断を下していいものなのだろうか、客観的に「お前はクリエイターになんて向いていない」と言われて初めて納得できるであろう。だが、そんな事を言われる機会なんてまずないし、人格否定の様な事を言おうとしない。だとするとやはり、自分自身がぼくはやっぱりクリエイターになんて向いていなかったんだ、、、と後悔するしかない。

ん?ていうか、この問題自体がそもそもおかしいのでは?「向いている」って、得意・不得意の範疇に入るものなのか?

ぼくはクリエイターに向いていたのか = ぼくはクリエイターが得意なのか

「向いている」というと広範囲に及んでしまうが、「得意」というニュアンスを用いるとだいぶ輪郭が見えてくる気がする。自分が何が得意か、くらいならまだ判断がつきそうだ。

「向いていない」という考えにまで至ってしまったのは、やはり周りとの比較である。あの人はあんなにできる人だ→僕は評価され無い→クリエイター失格という回路になる。比べる必要もなかった昔はどうだろう、失格もクソもそんな概念すらなかった。純粋にやりたい事をやっていただけなのだ。

 

 

2 彼女はクリエイターに向いていたのか

大学にすごく「できる人」がいた。教科書のお手本の様に課題をこなして、先生に気に入られて信頼されて評価を貰っていた人である。ぼくは最初からその人のことを「できる人」なんだなあと思い、「デザイン」に生きるべき人間として存在する「面白みのない人」だと思った。この様な人は学生生活何をしても信頼を勝ち取って生きやすい環境づくりをし、着実に力を着けていき、卒業してデザイナーとして何不自由なく「良い物」を作ってしまうんだなあ、と思った。

ぼくは技術はない、高等な知識もない、一般人にできる限りの「アイデア」くらいで課題をこなしてきた人間である。教科書の様な彼女は「素人」とはレベルが違うし、「一般人」を寄せ付けなかったから僕も含めて馬鹿にされているといったら悪意のある言い方になるが、まるで相手にされていない印象は強かった。

 

大学最後の卒業制作は、先生に与えられるものではなく自分で課題を見つけていくものだ。ぼくはここに全力投球しようと思った。技術はなくても限りない「アイデア」を注ぎ込もうと初っ端から飛ばしまくった。ぼくは初期のプレゼンから恥ずかしいことを真剣に言っていたのだけど、思えば最終形態はあまり変わっていないと思う。他の子は教授にあれこれ言われて信念がブレてしまった人が多々見受けられた。まあ、僕はアニメーションって最初から決まっていたからプラン変更ができないことは教授も分かっている、、、。

ぼくはもしかしたら僕自身に疎いのかもしれない。そんな教科書のお手本の様な彼女から自身の「一貫性」を尊敬している、と言われてしまったのだ。尊敬している人(劣等感を感じている人)に尊敬される、、、、、?自尊心の低いメンヘラは困惑してしまいました。クラス内ヒエラルキー光と闇の対極のような存在に認められてしまった、、、、、これはこれは驚き、、、。そして、彼女の口から驚きの言葉を聞く。「私はクリエイターに向いてないんじゃないのか」と。

 

彼女は「器用貧乏」という言葉をよく口にしていた。なんでもできる人なのである。要領を掴むのが上手いから、決められたことを確実にこなすことは恐らく容易。そんな彼女自身の、心の内側のパッション、と言ったら笑われそうだけどクリエイティビティは存在するのか。そこがなんだ、デザインとアートが混合しがちな問題なのかな。「良いデザイン」っていうのは形式的にある程度決まっているから独創的なクリエイティビティってあまり求められていないのですね。淡々とこなす人材、という方が割と正しい姿であると思うんですよ。そんなアート気質なぼくとデザイン特化な彼女が互いに作用した。

 

 

3 幼少期のクリエイティビティのバイタリティ

ぼくもどちらかというと器用貧乏なのである。学校の成績だって、割と満遍なかったしこれだけは出来ない!っていうのはない。彼女の劣化版レベルくらい。

自身果たして昔からクリエイティブな事をしていたのか、と幼少を振り返ると「クリエイターの鏡」であることがわかった。

  • 自由帳に絵を書いて、身近な出来事を絵と図にまとめた同人誌制作
  • きらりんレボリューション』のif verの漫画制作
  • PCで文書制作ツールを触った時に試しに、創作小説の執筆
  • お菓子づくりにどハマりした時は型や機材をすべて揃え、基本的な洋菓子は大体制覇しており、どれだけ不味いものが出来ようと飽きずに作り続けた
  • 粘土細工にハマっていた頃は小遣いを全額投資して手芸店に通いつめ、ネット勉強しながら専門部品、材料を取り揃え、見本と同じものをひたすら模倣したり、ただ「作りたいから作る」という一点の曇りのない気持ちで値段関係なく大量生産
  • 見よう見まねでプリキュアのコスプレ制作

思えば昔していたクリエイション時に、「他人」という軸は一切なかった楽しいから作っていただけなのである。今のような気持ちの悪い雑念など一切なかった。

 今はどうだ、上手くないと評価されないから絵を描かない、買った方が早くて美味いから料理しない、自分が書かなくても上手な文章が沢山あるから作る必要がない、など何を切り取っても常に社会常識が付き纏うのだ。そうして、個として尊重されるべき人間らしさがどんどん損なわれていく。適合して、全然面白みのない機械の様な人間が育ち資本の潮流に流されていく。

時代が時代なのでどうしようもないが、世間が色々急ぎすぎている。テレビ、というかメディアが出現した時代から個々の情報はすべてコンテンツ化されてしまい、完璧に消費されて、人間として扱われていない。1人の人間として感情をもった「生物」として扱われていない。僕も死んでいるし、皆も死んでいる。「誰の幸せ」のために文明が発展したんだ?????

 

 「 Life is Desin 」

社会に毒された大人って本当に気持ち悪い、僕はとっくに半分毒されている。自己嫌悪すると消えてなくなりたくなる。いつからこんな気持ちの悪い大人になったのだろう。「評価」されるようになってからかな、他人が評価しているものを「正しい」ものだと理解するようになってからかな。もちろん評価されることによって、自分が気づけなかった部分も見えて技術が向上するぶん、より表現できるようになるというメリットだって大いにあるのだけど、自分が「評価されない」のだと気づいた途端に「つくる」意義を見出せなくなってしまう。突き放された瞬間、永遠にぼくは戻ってこない。

 今のブログは、幼少期のバイタリティと全く同じものである。書きたいから書いている。言い回しが下手とか意味が通じないとか、利益を生むための書き方とか、クリックされやすいタイトルの書き方とか、他人の意思が私のモノづくりの過程に介在していない。全部自分で「考えて」楽しんでいる。そうやって自然と身についた経験が今後生きるのだ。人はどうせ、やってきたことしか出来ない。

 

 大学では「人生はデザイン」だ、と習った。教授ですら「"デザイン"ってなんなんでしょうね笑」って授業中に言うくらいだから、哲学的境地に陥るとどれだけ歳を取り知識が豊かになった所で一概に定義出来なくなってしまうのではないのだろうか。「デザイナー」だって「クリエイター」だってもはや概念なのである生きとし生ける人すべてが、クリエイターだ。

冒頭に出した、「私はクリエイターに向いているのか」問題。またしても、他人との比較から影響された非常に現代的な悩みであったことが分かってしまった。クリエイターを名乗るのに相応しいのは誰か、定型化された範囲に収まった想像に容易い人物こそが、クリエイターの称号を与えられるのに適しているのか。この業界は一様にして表すことの出来ない曖昧なカテゴリーが非常に多い。合格ラインの定められた「資格」がないから。資格というものは他人に承認されて初めて効果を発揮することができる。「失格」という言葉もまた、他人の意思に属した言葉なのだ。

だとすると、「失格」という否定的な言葉の敵意は自分自身に向けられたものであり、勝手に苦しみ自滅する未来しか見えなくなってきた。物理攻撃が沈静化され規制され、目に見えない精神攻撃が主流になってきている人はどれだけ平和になろうとしても、絶対にどこかで差別をし攻撃するのだ。自分自身を「守る」ために自身の「思想理念」を片手に武装し、守備をクリエイトし、差をつけざるおえない、自分が「楽しく」生きるために。

 

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■ 就活駄文

第一志望2度目の面接

就活2年目にして第一志望の会社に職種を変え、2回目の面接をした。以前のデータは残っていたらしい。私が去年受けていたことも面接初っ端から話題にして突っ込まれた。

去年の新卒採用とは違い、中途採用は結構淡々としていた。バイトの面接と同じ感じ。志望動機といつから働けるかが純粋に聞きたいだけ。学チカ、趣味、今まで苦労したこと、自己PR、最近見た面白い映像、とか色々よぶんなことも対策したけど、中途に聞きたいことなんて知れてるよね。そいつが仕事をやれる人間かどうかってことを聞きたいだけなんだよ。求職者の人物像なんてどうでもいいよね、そんなの当たり前だよ。ほら、アメリカって個人情報聞きだないのが当たり前っていうし。折角対策したのに、自分のこと全然聞かれないっていうのは物寂しい気もするのだが、大学で学んできたことなんて企業さん側にとってはどうでもいい事なんだよね。僕にとっては思入れ深い人生の数年間を過ごした出来事なんだけどさ。

 

無職になったって、誰も責めない。

1番焦燥感と惨めさと劣等感と罪悪感でいっぱいになって、生きていてごめんなさいってなって、ボロカスに責めるのは自分自身。就活すらしてなくて、プー太郎のぷーさんはそりゃ働けって怒られるだろうけど、まあ、僕は少なくとも就活を闇雲にやって納得せずに進んで妥協も媚を売ることもできずに無職になったパターンだから取り敢えず許してもらってるバージョンかもしれない。自分と葛藤しまくって、逃げているって思っている状態で外部から刺激を受けるとニートも親を刺すくらいの爆発的感情はあってもおかしくない。動き出そうと思っても僕以上にメンタルが弱くて動き出せない人もいるだろうから、それはもう自分自身でどうにかするしかないし、甘えている、甘える環境があるというのもまた事実。本気で生きようと思ったらどうしようもなく働かざるおえないだろうし。

 

第一志望は割と大手なんだけど、なんでこの会社ばかりに思入れがあるのかというと、単純に「知っている」からなんだよな。一生懸命調べた分、思入れがどんどん強くなってもうこの会社しかねえなって他に目移りしなくなってくるんだよ。もう俺は今回ご縁がなくても御社を毎年受けるを宣言したから、なんつうか、メンヘラ確定アピールしたなって。

御社も「入りたければいつでもうちは受け入れますよ、縁とタイミングによりますが」ってノリだし、来るもの拒まず去る者追わず的なスタイルがまさに、モテ男にいつまでも執着してなんとか振り向かせようとする残念な女の構図そっくりなんですね。まあそれが僕なんですけど。

そんで、たぶんいざ手に入ったら(入社)結構どうでもよくなっちゃうんじゃないかな。こんな私が手にできるようなレベルの男(会社の職種)なんて凄くない凄くない、、、、って一生自分の努力して手に入れたものを認めることができないんだ。ほんとどうしようもねえなこの女、、、、

 

なんとなく辛い時

無表情が極まって、なんかよくわからないけど元気が出ない時の感情は大抵こうやって文章を打ちたくなる時だって最近よくわかった。なんか溜まってる時だ。

音楽を爆音にして、すぐ心が逃げる。耳が壊れるくらい爆音にする。車内からアホみたいに音楽垂れ流しにしてるガラの悪い人もこんな感情なのかな。アンニュイなんて感情あるんか、、、、ニュアンスが違うかもしれん。

 

淡々とした冷たい感じの方が無意識に好んでるのかな、「苦しい」方が自分に相応しいと根底から思っているから、苦痛こそが自分の生きる道だと思ってしまうのだろうか。突き放されると余計に追いたくなると言ってしまうと非常に積極的な熱意のある人みたいになるのだが、熱があるとかそうではなく、ああやっぱり突き放されてしまったんだなあ、、、、しょぼーーーーーーーーんって状態が続くのが1番僕を執着的状態にしてやまない、というのが正しい。可哀想な自分大好き人間すよ、もうどうしようもねえ。毎日メンタル乱高下。

通常運転どん底モード

僕は周りの人に結構同情してもらえるのは「就活」っていう皆が経験した共通項があるからなんですね。これが大学浪人生だったり、すごく個人的な母数の少ない目標だったりすると、そんなの早く諦めちまえよ、はよ金稼いで親孝行しろやって言われるんでしょうけど、その辺まあ僕はまだ周りに恵まれたイージーモードな人生だとは思いますよ。とはいえ、僕の人生は僕の経験から感じたものがすべてなので、他の人がどれだけ「お前はすごい!」って応援してくれてもそれは一時的な甘味料であり、食べてしまったらすぐに消化されてなくなってしまうのだ。継続性がない。自分で受け止めるしかないような楽しくない出来事が少しでもあるとすーぐにどん底状態になる。そんなしみったれた人間の何が魅力的なんでしょうか。どうあがいても救いようのない人間だし、自決しろ以外の助言方法がない。ほっとくとどんどん地に落ちていくばかり。他人が救ってくれるのを待っているのかね、、全く他人行儀な甘えもいい所だ。

利用される所にうまいように利用されて翻弄されていた方がメンヘラにとってはやっぱり健全状態なのかもしれない。そうやってダメな方向にノリに乗ってまんまと頭の良い資本経済のトップに良いように利用されてるのもムカつくけど、見えないものにムカついても仕方ないし、現実は現実のままだし、目の前の人が言ってることがどこまで正しいこと言っているのかも分からないし、疑うことなく変に頭を働かせることなく馬鹿になっていれば幸せ、、、なんだけど環境形成からまんまとダメな方向に引っかかっている、という危機的理性意識が働くとやはり許せないし背きたくなる、、、、、というように順繰り順繰りしていると、もう個人としての主観的意識がすべて無駄なように思えてくるのだ。どうせこんな考えだって社会から形成されたメンヘラ人間が生み出した歴史的歯車の一部だとするとなんで僕はこんなに考えて考えて、一生懸命幸せになろうとしていのだろう、、、、、無駄だな、、、、、、と考えてしまうのだ。僕が僕自身であるための訳の分からないこの崇高な「考え」にSNSのいいね機能のように安直に共感してほしくないのだが、批判された途端に簡単に折れてしまうだろう。二極化しているのかしてないんだかどっちつかずな人間立場に自分自身でさえどこにいたら良いのか分からない、超絶面倒臭い人間性であることはお判りいただけるだろう。

他人に「見せている」見た目=他人から見た自分

君は僕のことを明るい所にいる、と言ったな。まるで自分が暗い所にでもいるかのように。僕が他人に見せている景色は純粋そうで、特に難しいこと(ドロドロの劣等感)を考えていなさそうな人物像、恐らく。何も考えていなさそう?つまらなさそう??この文章量が示すように僕は気持ち悪いほど考えているのだ。まあ他人がそれを知ったところで、、、、、。僕は明るい所には、いない。貴方から見て「いそう」に見えていても、本人がいないと言っているのだから、いない。不幸の競い合いか? 孤独でこそ不幸が一層にして輝くのに、他人という余分な異分子が介入してしまってはそれはとても滑稽でアホくさい。逆に純粋でない劣悪な部分を相手に見せた所で普通はメリットなんてないから見せないのが正しい、私は正しい。しかし、この僕の劣悪な部分は個人的にどこかしら(匿名のネット)で消化してしていかないとメンタル的に生命活動を維持するのに心苦しく、困る。誰かに知って欲しいという思いはあれど、身近な利害関係の発生する人に劣等感を打ち明けてしまうとその後やりずらくなって困るのは自分自身だ。打ち明ける人は慎重に選ばなければいけない。自分の目と直感を信じて。