「本能」のしゅるい

それは表面化されていない。 

 

も く じ

  1. ファイト・クラブ

  2. 無意識の「本能」

  3. 僕の「ほんのう」

 

 

 

ファイト・クラブ

Fight Club (字幕版)

Fight Club (字幕版)

  • メディア: Prime Video

 

 

我々はライフワークの為に生きていない。

 

とても良い社会風刺だった。小道具の使い方、セリフのセンス、など技術的側面の感想を言っていたらキリが無い為、いつも通り主観的な論を展開させていただく。

 

作り話要素が強い映画かと思いきや結構地に足のついた話だった。いつでも戦う準備は出来てるんや、特にメンヘラはな、闘争本能で煮えたぎってんだよ。

生温い草食動物とは違うんや。ムカつく上司に「クソッタレ効率悪すぎじゃボケエ!」と抗議しまくりたいし、恋愛では理性なんか吹っ飛ばしたい。理性と本能の葛藤は勿論のこと、肝はもっと現代的な問題にあると思う。

我々は会社の為に生きていないし、健康の為に生きていないし、割引になったご飯を買う為に生きてないし、流行りの化粧品を買う為に生きてる訳じゃ無い。

「本能」はどこに行った?

むしろあまりにも現実に騙されすぎて、普通すぎて、当たり前すぎて、自分の「本能」すら忘れてるんじゃ無いのか???

モヤモヤの正体すら分からない奴〜〜〜。

 

 

無意識の「本能」

話は変わり、「意識」と「無意識」の話をしたいと思う。

人には意識的にしていることと、無意識的に行動出来ていることがある。

無意識的に行動している事は、本人にとって自然すぎて苦労にも努力にもなっていない。何とも思っていない。変わって、意識的行動はどちらかというと社会的。他人に「影響」されて、学習した上で極めて「理性」に伴っている行動。

となると、「無意識」は極めて「本能」的。

 

***

 

先日、大学の同期(『クリエイター失格』に登場したデキる人)と何故か深夜の真剣討論をした。

私は突然、質問をしたくなってしまったので、彼女なら受け止めてくれると信じてある日の深夜、長文の相談を送ったのだ。内容は別段このブログと対して変わらないのだけど、この調子を現実の人に向けるには結構人を選ばないといけない。勇気を出してラインを送ったら、まあトンデモ互いに似たような爆弾を抱えていたのだ。

(相談内容は本筋からズレるので割愛するとして、)相談先の彼女はハイパー出来の良い秀才であるのでゼミというか学年で飛び抜けて得体の知れない「強さ」があった。

その強さが一体どこで手に入ったのかは大学時代に知ることはなかったが、何かが他人と違っていないとその「能力」は身につかないだろうな、とは感じていた。

真剣討論をしていると、次第に私から彼女の相談に移ってゆき、要約すると彼女もまた「メンヘラ」であった。彼女のヘラ具合はかなり「無意識的」で、いつの間にか超人になってた、そんな所っぽい。

 

「無意識」なので、行動動機にストレスは存在せず、それは「努力」と言った自己満足のような実を結ばない言葉とは無縁であった。超人になるための「行動」はむしろプロセスであり、「超人」になることは彼女にとってのゴールではなかった。若干の語弊はあるかも知れないが、俗に言う親に認めて貰う事がゴール。

ンンン〜〜〜、、、、、、、これぞメンヘラ。メンヘラの真髄。

自身のヘラ具合も偶に自笑するが、他の子のヘラ具合もまたイかれてるぜ〜、、、

ヘラは何でもやっちまうからな。

 

彼女は普通の人にとっての「努力」の範囲が「無意識」に値する部分がかなり顕著であるため、大多数とズレている。

「本能」(=親に認められる)が満たされなかった場合のストレスの捌け口はどこに来るのか。前回の記事で、「つまらない人」と書いてしまったが、彼女の話を聞けば、また無意識に自傷行為が発生するらしい。

 

正直、僕はそんな「特別」な彼女が羨ましい。

だって、僕はもっと感覚が優って単純に痛いから自傷行為はしないし、健全で凡人だ。僕は「意識」の方が勝る。

僕は「努力」して「意識的」に、能力を手に入れようとしている。

 

*** 

 

視覚化されずに消えた「本能」は奥深くに眠っていて、クリエイターは捻じ曲がった性癖になってるんじゃ無いのか。僕は自ら本能を捻じ曲げようとしている側なのだけど、産まれるのは嫉妬心と劣等感ばかりで成りきれていないのだ。

真摯な悩みというのは、その人の核心であって永遠の課題である。

 

 

僕の「ほんのう」

彼女ほどではないが、僕の理性によって抑圧された「無意識の本能」は一体どこに行ってしまたのか。知らず知らずの間にどこかで弊害がきているはずだが、その自分自身すら分からない「悩みのタネ」になってる部分に答えがあるのか、と思ったりする。

(すいません、今回は綺麗に答えが出ない。)

 

ファイト・クラブに戻ると、ライフワーク(=基準方針)こそが我々の生きる道だ、となんだか言われている気がして、それに沿って生きているまでは信じて何も疑うことが無いのだけど、外れた瞬間に生きがいを一気に感じなくなったり、本当にどうしたら良いのか分からなくなったりして、生きる根源を根っから見えない何か(他者)に吸い取られている。感情を感じているのは自身しかいないのに。

感情を他者に預けている状態は、ライフワークや親への依存だったりする。あまりにも自然過ぎて分からない感情委託は時代の進歩の所為にしてしまえば簡単に済むのだけど、数十年慣れきってしまった以上そう易々とシフトできるものでも無いので、地に足を付けないとやっぱり苦しい時がある。が、

 

 

もう我慢するの面倒臭いんだよ。

今まで「我慢」とすら分かっていなかったものが社会に関わっていけば行くほど「抑圧的」であったことに気づいて、我慢しなくて良いって理解してから、もう人生楽しくってしょうがないっていうか、、、、

簡単に言えば、反社会的行動、BADなことをしている時が1番生き生きしてしまう。勿論良識の範囲で制限するが、ギリギリを攻めるのが最高にゾクゾクする。緊張の弛緩っていうのかな。血脈が巡ってる状態が、嗚呼、生きてるって興奮するの。