「変人」で在る事について

「変な人」が超好き。

 

変であればあるほど、ガン見する、そいつの人生想像する。

変な作品に出会うと涙が出そうになるほど嬉しい時がある。心をグッと掴まれる。

 

自身の気質も同時に「変」なのかもしれない。変な人を「見る」と、(ここで言う視覚的な表現は僕の中で、勝手に作者との対話になっている)よしよしと撫でたくなり、仲間意識が芽生えて止まない。

最近何故こんなに惹かれているのか自分でも分からないから、悩んでいたが、今、わかった。

「変人」を見ると、自分が許されている気分になる。

変人を貪る様に現実でもネットでも探し続け、「安心感」を得、自分の行動動機を少しでも理由づけるために「材料」を集めている気がする、、、

 

現実には普通に「見える」人が多すぎる。それは勿論コミュニケーションを取れば、1人1人変な所はあると思うのだけど、薄い。そして、知るまでに時間がかかる。

効率が悪い。

そこに効率を求めるのは「コミュニケーション」を最初から諦めていることを公表してしまったことに他ならないが、「作品」は時間の集合体なので、あるもの全てのchoiceから読み取ることができる。

感情の吐き出し口は他者にできない。抑圧されて育ってきたし、今は社会人だもん。

捻じ曲がった感情吐露の先には捻じ曲がった快楽方法しか見つけられないでしょ。

 

社会集団に属した時にコミュニケーションをとらないから、周りが全て普通に見えて、自分が底辺に感じてしまうのは「勝手」に感じているだけなんだろうけど、けど僕は少なくともそう感じるから、自分より「変な人」を見て安心したい。風前の灯火のプライドを強固にしたい。

視聴者側で居る内は、自分がまだまだしょぼい人間だって百も承知なんだけど、やっぱり僕自身はもっと尖りたいな、、、、、

 


J.A. シーザー 君は答えよ

痛烈すぎる。爆笑して泣きそうになった。

サブカル気取りは本当に嫌なんですけどね。にわかだし。