「すごい」という気持ちは何処(いずこ)

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目次

  1. 「すごい人ら」と対等にはなしをしている自分

  2. 「会うべき人」

  3. とんでも拍子で「憧れ」の人に会う

  4. 「憧れ」に疲れた

  5. 「告白」

  6. 「心配事」

  7. 「すごい当人達」は実際のところ

 

「すごい人ら」と対等にはなしをしている自分

みんなすごい、すごい人多すぎ。初めて入った会社は、自分が「すごい」と思う人ばかりで、具体的に何をしている人か覚えてないけど兎に角、日本のトップで「すごい」ことをしている人たちなんだなという気持ちになって、その空間に自分が居てしまっていいのか、という葛藤と同時に平等にいち社員として接してくれるみなさんに対して、へり下りすぎるのもまた失礼なのではないのか、という自分としてはどうでも良くない気持ちと、社員としては非常にどうでもいい気持ちでいっぱいになっている。ここで余所余所しくしすぎるとまた、大学の二の舞だ、、、と恐怖でいっぱいになり、ローゼンメイデン桜田ジュンの学校への畏怖とまるで変わらない気持ちで居る。

チームの一貫として、社会を形成する人間として、この大多数の人たちと仲良くしていかないといけない。ここで良い人の皮を被らなければ私の化けの皮が剥がれ社会に疎外される。私はここでどういう「人」として、どういう立場として、「何者」として振る舞うべきなのだ?。一向にして自分が分からない。「嫌だ」という気持ちが先行して目の前の事に全然集中できない。人が怖い。フロイトに影響されて更に頭のおかしい人間になった。目の前に見えている現実は本当に現実のものなのか?この顔は本当にこの人なのか?ヤバイほど自我が消えそう。メンタルの居座る場所がない。自分がおかしい人間だって分かっているから、メンタルが居座って集中してしまうと完璧に人間をシャットアウトする空気を纏うことを知っているから、落ち着いてしまってはダメなんです。そして、それをアクティブな人はボーッとしてるように見えると言うことも知っている。

 

ひとつ、私は感じた。この全くもって遜った感情は大学の時に感じた「劣 等 感」だ、、、

しかしここは学生の時の環境とは全く違う。会社は教育機関ではない、もう終わったのだ、商業資本社会だ。同じ仲間として、見てくれている。勝手に遜って、勝手に色眼鏡をつけているのは自分だって気づいている。もう学習したのだから。だが、劣等感ばかりを感じて逃げの姿勢に入っている自身の気持ちの揺らぎも察知できるようになってきた。逃げていたらいつかメスが入るであろう、緩い世界ではないだろうから。

(この言い方は好きではないが)レベルが低めの所属でトップになるか、東大に入るけど成績下位みたいなやつで、私は後者になった訳だな。所属の名前だけがでっかくて、外では粋がれるけど内では小さいやつだ。あ〜惨めだなあ。どうしたって階級社会からは逃げられない。

 

会うべき人

大学はまるで人と関わって居なかったし、(いや、バイトやサークルで全く関わっていないことはないが)、面接とか次のコミュニティ探しの努力期間を経て、自分を晒け出して、本物の自分に合致した人に会い、やっと会うべき人達に出逢うことができたという表現でいいのだろうか。己が信じた道に進んで、本当に良かったと思う。そして、これからこの人らと一緒に私の経験を用いて、道を作っていくのだ。

 

とんでも拍子で憧れの人に会う

今年は正直「憧れ」に会いすぎた。憧れの人、憧れの町、これからも「憧れ」に会ってしまいそうなのだけど、良い意味で現実を知るたびに私自身の強烈な「憧れ」という気持ちは一体どこから来て、何処へ流れて行くのだろうか、という気分になる。地に足が付かずして、常に不安定であり、心が宙に浮いており、今の気持ちを表そうとするとどうにもポエミー染みた文体になっている。取り敢えず今は自分の信じるままに、今までの私の記憶・経験・知識を信じて、成るように、なる。私の頭脳だけはいつも味方だから。頭脳だけは絶対に裏切らない。私の中から飛んで行った「憧れた」先にいる人々に実際に出会い、現実を知り、自分から無くなったものを取り戻すための旅に出る、といったイメージに近い。嗚呼、ポエミー。具体的に話せないのか、話したくないだけなのか分からないけど、概念で話した方が楽しい。只それだけだ、、、。

 

「憧れ」に疲れた

何かに憧れることに疲れた。今はただ単と仏のような気持ちなのである。在るが儘を受け入れ、もう余分なものは欲しないし、手を出さない。もうこれ以上フィルターに洗脳されないように、振り回されないように、自分を律して、この目で判断し、気高く生きたい。

 

「告白」

今年はなんだか、沢山告白をしている気がする。就活とか、就活とか、憧れの人とかに対して本気というか、もう包み隠さずに直球でエネルギーを抑えずに言わなくてもいいかな、と悩むレベルなら全て相手に伝えてしまう勢いで生きてきた。

自分の特性は人間関係の希薄さからだんだんと学習してきたので、まあ言える事は言える時にガツンと言ってしまおうといった次第でプレゼンや紙媒体のような一方的な機会があれば全部ブチまけてしまうただのコミュ障である。それを言った上で食いついてくれた人に対しては、私も全力投球でお返ししたい。この「根暗さ」というものは人対人といった会話コミュニケーションを介していないからこそ、文体として、作品に昇華されているからこそ、面白いものに仕上がっていると思うが、コミュニケーションにこんな暗い話を持ち込まれたらひたすら反応に困るであろう。当たり前だが。じゃあ、暗い話は一体どこで話すんだよバカ。やっぱり此処しかないじゃないか。理解できない人は僕と悩みのベクトルが違う。

同世代は真剣に聞いてくれる人は割と真剣に聞いてくれる事が分かってきた。しかし、更に上をいく人は、この「根暗さ」を純粋に聞いて笑ってくれる。「暗さ」を笑い飛ばす、これが出来る人というのはどういう人なのだろう。まだ此処まで到達していない僕はそのような人達を計る事ができない。僕は常に余裕がないので(若年層に心の余裕のない人はあまりいないと思うが(社会的昇進の意味で))、余裕のある人がとても好きです。余裕のある人は王たる器をとことん感じるし、進んで話しかけて水のように癒着していきます。この意識の尖った残念な僕を、ママンのように、パピーのように、笑っちゃってくれる人と一緒にいる時が最高に心地が良い。1番救われるというか、(プライドが折れるとか軟弱になるとかそういう事はないと思うけど)僕自身が最も健全に野比のび太になれる。

僕は良い加減救われたい。いや実質、少しずつ救われてきた。辛い期間を経て、そこそこ屈強な人間にもなれたはず。辛い時の対処方法、逃げ道、回復方法はある程度学習したし。苦手そうな人はとことん距離を置くし一切関わらない。私は自身の観察眼を信じている。ダメな人は最初から分かるし、良い人も最初から分かるから裏切られた事もない。余分な事は考えたくない、もう面倒くさい、駆け引き面倒臭い、そもそも得意じゃねえ、そんな事にリソースを割きたく無い。在るが儘に生きるぞ。

 

 

「心配事」

「すごい人」とばかり関わっていると、自分の地位がなんだか上がったような気がしてしまう。いや、というか私は極悪人なので、すごい人の苦手なことを会話をしながら探って、自分を少し安心させている節がある。私はこれからきっと自身の経験談を必要とされて誰かに何かを話す時に、この人はああだ、あの人はああだ、と知ったような口を聞いて自分の人脈自慢をするような人として中身のない、比較的疎まれる人になってしまいそうで怖い。まあ自身のネガティブ要素が消えることは一生ないので、完璧傲慢野郎になることは絶対ないが。しかしながらも、私のクリエイティブは現時点で文字を記入することでありそれまたエッセイであるので、あまり創意工夫をしていないのだ。これで私の「自分磨き」なるものの補強が一体されているのかというのが問題である。

この駄文がインターネットに残って、今後一体何に活用されようというのか。私が「すごい人」になった時のための20代最初の記録書にでもなっていつかの参考資料に成り得るのだろうか。

 

 

「すごい当人達」は実際のところ

みんな伊達に自分らの成し遂げている「すごさ」に気づいていないんじゃないか。

どれだけすごいことをしている、と消費者視点で夢見がちに思っていても当事者達はいち社会人であり、意識としては、普通のサラリーマンと同じように「責任」を持って皆さん働いている。毎日がキラキラしたような日々ではないし、普通に淡々と日は過ぎていくし、み〜んな普通に人間なんす、、、、、。

 

上には上がいる、という悩みはどこに行ったって付きまとうし、何だかそこで悩んでいたら一生かかって微妙なネガティヴ抱えて生きるだけなので、やはり考えるのが大層無駄に思えてきた、、、。ので、私は今ある環境をただ大事に目の前の人らと仲良くすることに決めた。と綺麗事を言うパリピ人間が使うセリフを使う。

 

三角ピラミッドはどこまでもネガティヴ要素の塊ですな。競い合って苦しむことを本当に辞めたい。苦しんで産んだものって、少数を犠牲にして、後の世に生きる大多数を救うものなのでしょうか。後の世に生きる顔も知らねえ大多数の他人の為に自身を犠牲にすることこそが「善」とされるのでしょうか。嫌です。動物のように、虫のように、ただピュシスのままに生きたい。