相手に聞いてみたいことが溢れる時、伝える機会は大体無い。
だとしたら、この気持ちはどうして生まれて如何にして抑えれば良いのだろう。
とても気になる
突発的に浮かぶ莫大な「気になること」。
これを相手に発露しようとしてしまったら、きっとdisCommunication。
前振りが無いのは、全て私の想像。「正」か「負」か試したくなる。
自分の「想像」が正しいのかどうか。
「Communication」が取れた時は、多少無理にでも会話の潮流に食い込ませ、己の欲する「問い」と何かしらの「答え」を求めている。
そこまでの「機会」を作ることができれば、かなりラッキーな方で、大体が「Communication」の為に喉元に言葉が常につっかえてるだけじゃ無いか。物理的距離がある時は、大体煩悩に囚われている。
チャンスを作れない
人生も恋愛もタイミングが大事だって言うから、僕はもう半ば諦めて「タイミング」も「チャンス」も積極的に作る努力は辞めた。偶発的に起きた出来事には、流れに身を任せようと思っている。だからこそ、より、他人の作為的な「偶然」に敏感なのか、異常に避けてしまう節があると言うか、非常に頑張っているな、と他人行儀に感動するくらいには居た堪れない女になった。
もう「行動」ができない。
「妄想」で飽き足りた。
ただ、「妄想」を他人に向けるな。
「disCommunication」は相当に「不自然」。気持ち悪い。自分も相手からされても。
感情の「揺らぎ」は紙一重なんです。そこに「トキメキ」を覚える時もあれば「恐怖」にも成り得る。
「違和感」を徹底的に無くせ。自然にしろ。
僕は一体何をしている、気持ち悪いんだよ。
相手の「核心」に触れたくて堪らない様々な「気になること」は、「Communication」の段階を丁寧に踏んでいかないと自然に「到達」と「消化」ができない。
道のりが長い。
「知りたい」ことを「知る」には道のりが長すぎる。
そこで「情熱」よりも「面倒臭さ」が勝ってしまうようになったのだから、ますます僕は「Communication」が取れない。
この現象を「老けた」と呼ぶべきか、一周回って「達観したつもりになっている若者」とでも言うのか。
Communicationを取りなさいとは誰も言わない
「Not Communication」は辛い。最初に言ったように、これを打破するには「Communication」を取るか、抑圧しないといけない。僕は正しい「答え」を聞きたいのではなく、自己の浮かんだ「問い」の俗物的な妄想を相手に当てはめたいだけなのかもしれない。
それは相手にとって失礼か。
「失礼さ」と「Communication」の境界線及び、距離感が分からない。いや、分かろうとしていないのか。最初から衝突を避けているのよ。いつからこんなんになったんだ。
成長する度に「我慢」が増える。「抑圧」の数少ない発散先はどこか。
現実逃避、自慰行為。
迷惑かけていいよ、なんて誰も言わなかったじゃ無いか。
ある程度の失礼さ、無礼講、遠慮の無さ、これが人間の仲を深める要素だって知識としてはあるけど、学校でそんなこと一言も教えてくれないじゃ無いか。自発的に出来ている人間が勝ちじゃん。
自分の力で答えを見つける力の無い人間に答えを出さずに「Communication」が出来ると思いますか。
ねえ教えてよ。衝突しても守ってくれる土台、誰か作ってよ。誰も守ってくれないんだもん。そのまま死にます?
僕が変わらないと、Communicationを取れない僕は永遠に「悪」になってしまう。ムカつくので、「Communication」自体を「悪」にするのはどうか。果てのない「感情抹殺」こそが「善」だと。
僕みたいな奴には「普遍的な幸せ」は享受出来ないと?
それに変わって、自慰行為は永遠に楽しい。「答え」が自分の中にあるから。絶対に間違わない。
歳を取れば守るものが増えて、若者特有の自己保守的な気持ちは消えて余裕が出てくるって?
いやだ。余裕が出てくるそんな長い時間まで我慢してじわじわと生きたくない。
一瞬の我慢が1番辛い
この話をまとめないといけないのだが、今までの経験上、悲しいことに全て「時間」が解決してくれる。
問題は突発的に湧き上がる感情の行き先をどうすれば良かったのか、いつも悩んでいる。
僕はその一瞬でも良いから繋がりたかった。繋がった「気に」成りたかった。
時間が経つと、聞きたい内容すら忘れている時もある。何年経っても忘れていないこともあるけど、頭の専有度は低い。これを繰り返して、また僕は「我慢」を覚えるのか。