クリエイター失格

人間失格

 

 目 次

  1. 私はクリエイターに向いていたのか

  2. 彼女はクリエイターに向いていたのか

  3. 幼少期のクリエイティビティのバイタリティ

  4. 「 Life is Desin 」

 

 

1 私はクリエイターに向いていたのか

定期的に悩む、自分がクリエイター に向いていなかったのでは問題。何も作っていない人が自分の向き不向きについて語るのは反感を食らうだけだが、僕はまだ「作っていた人」なのでこれについて考える「権利」がある。では、向いている、向いていないという判断は一体誰がするんだ。自分自身が判断を下していいものなのだろうか、客観的に「お前はクリエイターになんて向いていない」と言われて初めて納得できるであろう。だが、そんな事を言われる機会なんてまずないし、人格否定の様な事を言おうとしない。だとするとやはり、自分自身がぼくはやっぱりクリエイターになんて向いていなかったんだ、、、と後悔するしかない。

ん?ていうか、この問題自体がそもそもおかしいのでは?「向いている」って、得意・不得意の範疇に入るものなのか?

ぼくはクリエイターに向いていたのか = ぼくはクリエイターが得意なのか

「向いている」というと広範囲に及んでしまうが、「得意」というニュアンスを用いるとだいぶ輪郭が見えてくる気がする。自分が何が得意か、くらいならまだ判断がつきそうだ。

「向いていない」という考えにまで至ってしまったのは、やはり周りとの比較である。あの人はあんなにできる人だ→僕は評価され無い→クリエイター失格という回路になる。比べる必要もなかった昔はどうだろう、失格もクソもそんな概念すらなかった。純粋にやりたい事をやっていただけなのだ。

 

 

2 彼女はクリエイターに向いていたのか

大学にすごく「できる人」がいた。教科書のお手本の様に課題をこなして、先生に気に入られて信頼されて評価を貰っていた人である。ぼくは最初からその人のことを「できる人」なんだなあと思い、「デザイン」に生きるべき人間として存在する「面白みのない人」だと思った。この様な人は学生生活何をしても信頼を勝ち取って生きやすい環境づくりをし、着実に力を着けていき、卒業してデザイナーとして何不自由なく「良い物」を作ってしまうんだなあ、と思った。

ぼくは技術はない、高等な知識もない、一般人にできる限りの「アイデア」くらいで課題をこなしてきた人間である。教科書の様な彼女は「素人」とはレベルが違うし、「一般人」を寄せ付けなかったから僕も含めて馬鹿にされているといったら悪意のある言い方になるが、まるで相手にされていない印象は強かった。

 

大学最後の卒業制作は、先生に与えられるものではなく自分で課題を見つけていくものだ。ぼくはここに全力投球しようと思った。技術はなくても限りない「アイデア」を注ぎ込もうと初っ端から飛ばしまくった。ぼくは初期のプレゼンから恥ずかしいことを真剣に言っていたのだけど、思えば最終形態はあまり変わっていないと思う。他の子は教授にあれこれ言われて信念がブレてしまった人が多々見受けられた。まあ、僕はアニメーションって最初から決まっていたからプラン変更ができないことは教授も分かっている、、、。

ぼくはもしかしたら僕自身に疎いのかもしれない。そんな教科書のお手本の様な彼女から自身の「一貫性」を尊敬している、と言われてしまったのだ。尊敬している人(劣等感を感じている人)に尊敬される、、、、、?自尊心の低いメンヘラは困惑してしまいました。クラス内ヒエラルキー光と闇の対極のような存在に認められてしまった、、、、、これはこれは驚き、、、。そして、彼女の口から驚きの言葉を聞く。「私はクリエイターに向いてないんじゃないのか」と。

 

彼女は「器用貧乏」という言葉をよく口にしていた。なんでもできる人なのである。要領を掴むのが上手いから、決められたことを確実にこなすことは恐らく容易。そんな彼女自身の、心の内側のパッション、と言ったら笑われそうだけどクリエイティビティは存在するのか。そこがなんだ、デザインとアートが混合しがちな問題なのかな。「良いデザイン」っていうのは形式的にある程度決まっているから独創的なクリエイティビティってあまり求められていないのですね。淡々とこなす人材、という方が割と正しい姿であると思うんですよ。そんなアート気質なぼくとデザイン特化な彼女が互いに作用した。

 

 

3 幼少期のクリエイティビティのバイタリティ

ぼくもどちらかというと器用貧乏なのである。学校の成績だって、割と満遍なかったしこれだけは出来ない!っていうのはない。彼女の劣化版レベルくらい。

自身果たして昔からクリエイティブな事をしていたのか、と幼少を振り返ると「クリエイターの鏡」であることがわかった。

  • 自由帳に絵を書いて、身近な出来事を絵と図にまとめた同人誌制作
  • きらりんレボリューション』のif verの漫画制作
  • PCで文書制作ツールを触った時に試しに、創作小説の執筆
  • お菓子づくりにどハマりした時は型や機材をすべて揃え、基本的な洋菓子は大体制覇しており、どれだけ不味いものが出来ようと飽きずに作り続けた
  • 粘土細工にハマっていた頃は小遣いを全額投資して手芸店に通いつめ、ネット勉強しながら専門部品、材料を取り揃え、見本と同じものをひたすら模倣したり、ただ「作りたいから作る」という一点の曇りのない気持ちで値段関係なく大量生産
  • 見よう見まねでプリキュアのコスプレ制作

思えば昔していたクリエイション時に、「他人」という軸は一切なかった楽しいから作っていただけなのである。今のような気持ちの悪い雑念など一切なかった。

 今はどうだ、上手くないと評価されないから絵を描かない、買った方が早くて美味いから料理しない、自分が書かなくても上手な文章が沢山あるから作る必要がない、など何を切り取っても常に社会常識が付き纏うのだ。そうして、個として尊重されるべき人間らしさがどんどん損なわれていく。適合して、全然面白みのない機械の様な人間が育ち資本の潮流に流されていく。

時代が時代なのでどうしようもないが、世間が色々急ぎすぎている。テレビ、というかメディアが出現した時代から個々の情報はすべてコンテンツ化されてしまい、完璧に消費されて、人間として扱われていない。1人の人間として感情をもった「生物」として扱われていない。僕も死んでいるし、皆も死んでいる。「誰の幸せ」のために文明が発展したんだ?????

 

 「 Life is Desin 」

社会に毒された大人って本当に気持ち悪い、僕はとっくに半分毒されている。自己嫌悪すると消えてなくなりたくなる。いつからこんな気持ちの悪い大人になったのだろう。「評価」されるようになってからかな、他人が評価しているものを「正しい」ものだと理解するようになってからかな。もちろん評価されることによって、自分が気づけなかった部分も見えて技術が向上するぶん、より表現できるようになるというメリットだって大いにあるのだけど、自分が「評価されない」のだと気づいた途端に「つくる」意義を見出せなくなってしまう。突き放された瞬間、永遠にぼくは戻ってこない。

 今のブログは、幼少期のバイタリティと全く同じものである。書きたいから書いている。言い回しが下手とか意味が通じないとか、利益を生むための書き方とか、クリックされやすいタイトルの書き方とか、他人の意思が私のモノづくりの過程に介在していない。全部自分で「考えて」楽しんでいる。そうやって自然と身についた経験が今後生きるのだ。人はどうせ、やってきたことしか出来ない。

 

 大学では「人生はデザイン」だ、と習った。教授ですら「"デザイン"ってなんなんでしょうね笑」って授業中に言うくらいだから、哲学的境地に陥るとどれだけ歳を取り知識が豊かになった所で一概に定義出来なくなってしまうのではないのだろうか。「デザイナー」だって「クリエイター」だってもはや概念なのである生きとし生ける人すべてが、クリエイターだ。

冒頭に出した、「私はクリエイターに向いているのか」問題。またしても、他人との比較から影響された非常に現代的な悩みであったことが分かってしまった。クリエイターを名乗るのに相応しいのは誰か、定型化された範囲に収まった想像に容易い人物こそが、クリエイターの称号を与えられるのに適しているのか。この業界は一様にして表すことの出来ない曖昧なカテゴリーが非常に多い。合格ラインの定められた「資格」がないから。資格というものは他人に承認されて初めて効果を発揮することができる。「失格」という言葉もまた、他人の意思に属した言葉なのだ。

だとすると、「失格」という否定的な言葉の敵意は自分自身に向けられたものであり、勝手に苦しみ自滅する未来しか見えなくなってきた。物理攻撃が沈静化され規制され、目に見えない精神攻撃が主流になってきている人はどれだけ平和になろうとしても、絶対にどこかで差別をし攻撃するのだ。自分自身を「守る」ために自身の「思想理念」を片手に武装し、守備をクリエイトし、差をつけざるおえない、自分が「楽しく」生きるために。

 

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