■ 就活駄文

第一志望2度目の面接

就活2年目にして第一志望の会社に職種を変え、2回目の面接をした。以前のデータは残っていたらしい。私が去年受けていたことも面接初っ端から話題にして突っ込まれた。

去年の新卒採用とは違い、中途採用は結構淡々としていた。バイトの面接と同じ感じ。志望動機といつから働けるかが純粋に聞きたいだけ。学チカ、趣味、今まで苦労したこと、自己PR、最近見た面白い映像、とか色々よぶんなことも対策したけど、中途に聞きたいことなんて知れてるよね。そいつが仕事をやれる人間かどうかってことを聞きたいだけなんだよ。求職者の人物像なんてどうでもいいよね、そんなの当たり前だよ。ほら、アメリカって個人情報聞きだないのが当たり前っていうし。折角対策したのに、自分のこと全然聞かれないっていうのは物寂しい気もするのだが、大学で学んできたことなんて企業さん側にとってはどうでもいい事なんだよね。僕にとっては思入れ深い人生の数年間を過ごした出来事なんだけどさ。

 

無職になったって、誰も責めない。

1番焦燥感と惨めさと劣等感と罪悪感でいっぱいになって、生きていてごめんなさいってなって、ボロカスに責めるのは自分自身。就活すらしてなくて、プー太郎のぷーさんはそりゃ働けって怒られるだろうけど、まあ、僕は少なくとも就活を闇雲にやって納得せずに進んで妥協も媚を売ることもできずに無職になったパターンだから取り敢えず許してもらってるバージョンかもしれない。自分と葛藤しまくって、逃げているって思っている状態で外部から刺激を受けるとニートも親を刺すくらいの爆発的感情はあってもおかしくない。動き出そうと思っても僕以上にメンタルが弱くて動き出せない人もいるだろうから、それはもう自分自身でどうにかするしかないし、甘えている、甘える環境があるというのもまた事実。本気で生きようと思ったらどうしようもなく働かざるおえないだろうし。

 

第一志望は割と大手なんだけど、なんでこの会社ばかりに思入れがあるのかというと、単純に「知っている」からなんだよな。一生懸命調べた分、思入れがどんどん強くなってもうこの会社しかねえなって他に目移りしなくなってくるんだよ。もう俺は今回ご縁がなくても御社を毎年受けるを宣言したから、なんつうか、メンヘラ確定アピールしたなって。

御社も「入りたければいつでもうちは受け入れますよ、縁とタイミングによりますが」ってノリだし、来るもの拒まず去る者追わず的なスタイルがまさに、モテ男にいつまでも執着してなんとか振り向かせようとする残念な女の構図そっくりなんですね。まあそれが僕なんですけど。

そんで、たぶんいざ手に入ったら(入社)結構どうでもよくなっちゃうんじゃないかな。こんな私が手にできるようなレベルの男(会社の職種)なんて凄くない凄くない、、、、って一生自分の努力して手に入れたものを認めることができないんだ。ほんとどうしようもねえなこの女、、、、

 

なんとなく辛い時

無表情が極まって、なんかよくわからないけど元気が出ない時の感情は大抵こうやって文章を打ちたくなる時だって最近よくわかった。なんか溜まってる時だ。

音楽を爆音にして、すぐ心が逃げる。耳が壊れるくらい爆音にする。車内からアホみたいに音楽垂れ流しにしてるガラの悪い人もこんな感情なのかな。アンニュイなんて感情あるんか、、、、ニュアンスが違うかもしれん。

 

淡々とした冷たい感じの方が無意識に好んでるのかな、「苦しい」方が自分に相応しいと根底から思っているから、苦痛こそが自分の生きる道だと思ってしまうのだろうか。突き放されると余計に追いたくなると言ってしまうと非常に積極的な熱意のある人みたいになるのだが、熱があるとかそうではなく、ああやっぱり突き放されてしまったんだなあ、、、、しょぼーーーーーーーーんって状態が続くのが1番僕を執着的状態にしてやまない、というのが正しい。可哀想な自分大好き人間すよ、もうどうしようもねえ。毎日メンタル乱高下。

通常運転どん底モード

僕は周りの人に結構同情してもらえるのは「就活」っていう皆が経験した共通項があるからなんですね。これが大学浪人生だったり、すごく個人的な母数の少ない目標だったりすると、そんなの早く諦めちまえよ、はよ金稼いで親孝行しろやって言われるんでしょうけど、その辺まあ僕はまだ周りに恵まれたイージーモードな人生だとは思いますよ。とはいえ、僕の人生は僕の経験から感じたものがすべてなので、他の人がどれだけ「お前はすごい!」って応援してくれてもそれは一時的な甘味料であり、食べてしまったらすぐに消化されてなくなってしまうのだ。継続性がない。自分で受け止めるしかないような楽しくない出来事が少しでもあるとすーぐにどん底状態になる。そんなしみったれた人間の何が魅力的なんでしょうか。どうあがいても救いようのない人間だし、自決しろ以外の助言方法がない。ほっとくとどんどん地に落ちていくばかり。他人が救ってくれるのを待っているのかね、、全く他人行儀な甘えもいい所だ。

利用される所にうまいように利用されて翻弄されていた方がメンヘラにとってはやっぱり健全状態なのかもしれない。そうやってダメな方向にノリに乗ってまんまと頭の良い資本経済のトップに良いように利用されてるのもムカつくけど、見えないものにムカついても仕方ないし、現実は現実のままだし、目の前の人が言ってることがどこまで正しいこと言っているのかも分からないし、疑うことなく変に頭を働かせることなく馬鹿になっていれば幸せ、、、なんだけど環境形成からまんまとダメな方向に引っかかっている、という危機的理性意識が働くとやはり許せないし背きたくなる、、、、、というように順繰り順繰りしていると、もう個人としての主観的意識がすべて無駄なように思えてくるのだ。どうせこんな考えだって社会から形成されたメンヘラ人間が生み出した歴史的歯車の一部だとするとなんで僕はこんなに考えて考えて、一生懸命幸せになろうとしていのだろう、、、、、無駄だな、、、、、、と考えてしまうのだ。僕が僕自身であるための訳の分からないこの崇高な「考え」にSNSのいいね機能のように安直に共感してほしくないのだが、批判された途端に簡単に折れてしまうだろう。二極化しているのかしてないんだかどっちつかずな人間立場に自分自身でさえどこにいたら良いのか分からない、超絶面倒臭い人間性であることはお判りいただけるだろう。

他人に「見せている」見た目=他人から見た自分

君は僕のことを明るい所にいる、と言ったな。まるで自分が暗い所にでもいるかのように。僕が他人に見せている景色は純粋そうで、特に難しいこと(ドロドロの劣等感)を考えていなさそうな人物像、恐らく。何も考えていなさそう?つまらなさそう??この文章量が示すように僕は気持ち悪いほど考えているのだ。まあ他人がそれを知ったところで、、、、、。僕は明るい所には、いない。貴方から見て「いそう」に見えていても、本人がいないと言っているのだから、いない。不幸の競い合いか? 孤独でこそ不幸が一層にして輝くのに、他人という余分な異分子が介入してしまってはそれはとても滑稽でアホくさい。逆に純粋でない劣悪な部分を相手に見せた所で普通はメリットなんてないから見せないのが正しい、私は正しい。しかし、この僕の劣悪な部分は個人的にどこかしら(匿名のネット)で消化してしていかないとメンタル的に生命活動を維持するのに心苦しく、困る。誰かに知って欲しいという思いはあれど、身近な利害関係の発生する人に劣等感を打ち明けてしまうとその後やりずらくなって困るのは自分自身だ。打ち明ける人は慎重に選ばなければいけない。自分の目と直感を信じて。