恋愛だと思っていた行為は自己愛の享受なのかもしれない

私は片思いしかできない。

 

最近、大好きな人に 人生初めての告白をし、また1つの恋を終わらせた。

なぜいつも猛烈に片思いをして、妄想と情熱を燃やしに燃やし成就することはなく悲劇のヒロインで終わってしまうのか、自分の「恋愛」といっているもののソレは世間の健全なコミュニケーションのとれたカップルと履き違えているのではないかと思って、暫し冷静になって考えようと思ってしまった。このところ、人生全てにおいて振り返っている気がする、、、

今まで、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学いつも好きな人はいた。自分の恋愛史を振り返ると恋多き女だってことが友達に打ち明けて、喋りながら納得しちゃったんだけど、私はその時々真剣に思いを巡らせているわけだ。なんで自分の形態ってこうなんだろうって真剣に考えないと、この謎を究明しないと、これから健全な恋愛ができない。それが君なんだからそのままでいいじゃんってなればそれでいいのかもしれないけど、何だろ。答えとしては悩みに悩んだ結果、出ている。ただ、現実を見たくないだけ。

A. 恋に恋してる自分が好き。

じゃあ、どうして自分がこの状態にあるのか。今度はそっちが気になる。究極の自己分析ならぬ、自己恋愛分析。こうやって既に答えが出てる癖に、さらに問題を自分で見つけては順繰り順繰り思考のループを辿って、ビミョーに納得しては納得せずにいる。行き着いた答えはまあ、タイトル通り。

 

恋愛コラムは読むに読みまくってた。相手の些細な言動、行動すべて気になることをGoogle先生に検索かけて頭で分析して、行動原理および心理把握して相手の気持ちを測って、分からないことを一生懸命理解しようとしていたのかな。

自分の感情や思いを忘れないようにするために書き殴っていたメモ書きの日記は誰にも見せずに墓場まで取っておいた方がいいやつかな、、、、、、、、、こういうのって本人が知ったとしたら普通ドン引きするのか。私がそういうのを見たとしたら、まず感動するだろうね。私の事、何も知らない癖に私についてこんなに誇大妄想を広げていたのか!すごい!!!気になる!!!ってなっちゃうだろうな。

私のことをストーカーしたくなっちゃうほど好きになってくれる人がいたとしたら、一体どんなところに惹かれてそこまでの何かを掻き立てられてしまったのか知りたくなる。視点を変えて、本来の自分を曝け出した時、それはそれで相手との価値観が合致すればホンモノになれるだろうな、、、

「されて嬉しいことはするべきだ」とはいえそこは一般論と個人的趣向を履き違えてはいけない気もする、うん。キッモって思われて、思い出すだけでゾワゾワするなんて印象を与えてしまったら、お互い嫌な思い出で終わってしまう。そういう終わり方は避けたい。

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今回、大学生活を経て膨大なマンガのような恋愛エピソードがあることは一旦置いておいて、自身の恋愛パターンについて分析したい。

就職活動履歴書の正しい答え方のように結論からいうと、私はどうやら頭で恋愛をしているっぽい。仮説をする。恐らく、自分はこの人が好きなのだと自分で思い込んでいる。そして、その状態が人と恋愛をする正しいやり方なのだと思っている。

いや、当たり前っちゃ当たり前なんだけど、好きなのだから。好きなんじゃん。女子高校生が部活動のイケメンの先輩見て一目惚れしちゃうとか普通にあるじゃん。健常に正常に青春の1ページを刻んで、甘酸っぱい記憶に残るなり成就するなりすればいいんだけど、日常的にそこまで感情を純粋に表現できる人間じゃないので、当方至って苦しい。

肝心な今まで見てきた恋愛コラムを参考にしながらグダグダと論じればいいのだが、探してURL貼るのも面倒臭いし、もう読みすぎてたぶん頭の中に叩き込まれているだろうから自分の言葉で書くぞ!!

(経験としてはたまたま大学の友人と恋愛の話をしていた時に、彼氏の行動原理が手に取るように理解できてしまいアドバイスをさらさら言えてしまった実績があるため、これ手の知識は完璧に組み込まれている)

前置きが長い。

で、難しい熟語で表したかったからタイトルに「自己愛の享受」とまとめたんだけど、少し前にこれだ!!!!自己愛の享受だわ!!!って発見したため新鮮さがどうにも薄れてしまいその時よりも的確な答えを忘れてしまった。

 

 

私が恋をする上で行なっていることが、自分を好きになるための確認行為なんじゃないかっていう里見八犬伝。恋に恋してる自分が好きだってこと。

けどこれっておかしいよね。普通、相手のことが好きで恋愛って成り立ってるはずなのに自分を愛するために相手を好きになるって。

相手を好きになること=一般的な恋愛

という前提条件を取っ払って、

相手を好きになること=自分を好きになること

という仮説が立った。考えても解決しない問題とは、常に前提条件を疑わないと話が進まない。今まで真剣に向き合おうとも思わなかった問題に向き合ってみるとスッキリする。

 

小島さんの記事(下記)は、そんなに関係のある話ではないけど正に自分のモヤモヤと世間の常識を一回疑って見て、自分をそれに定義づけるというスタイルで解決した話。ほほう、納得〜〜〜となったんで、このスタイルは結構好きなんで積極的に真似していきたい。


 

人を好きになる傾向として、まず条件。

  • 細身のイケメン
  • 皆に対する優しさではなく、個人に当てられているだろう優しさを感じ取れた時
  • 気がありそうな瞬間を感じ取れる行動

こんな少ない条件ですぐ落ちる。ちょろいな〜〜〜。Fall in Love.

落ちたら急転直下なんだけど、いつもね、相手との熱量の差があると思うのね。たぶん相手はそこまで思ってないわ。話して悪い奴でもなさそうだし、見た目もそこそこだから好意を示しておいて損はない、くらいのノリであろう。私はそこで勘違いをしてしまう。自分に向けられた好意を少しでも感じてしまうと途端に嬉しくなって私のもっとも求めてしょうがない「恋愛」に発展する可能性があるのではないのかと。

そこで自分のモチベーションを一気に高めて、相手の分析を始める。目はどこをむいていたか、何を話していたか。そんで、自分からLINEでデートなりきっかけなどのアポを必死で持ち込む。

たぶんこの辺だ。この辺から男女の熱量の差が生じている。信頼関係をろくに構築していないにも関わらず、女が積極的に好意的に話を持ちかけている。この時点で相手にとって異世界人。

で、私も何が何でも目的を達成しないと落ち着かないタイプだから、相手を絶対に否定しない、気を悪くしないであろう言葉を選びとって"女子"を演じているだろう。一応常識の範囲内でしつこい女に収まっているはずだから、ブロック・ミュートされるほどネット映えする強烈キャラな痛い人間にはなっていない。

 

私のポリシーとして、明日のナージャに登場するローズマリー大先生の名言。

「優しくて可愛くて、誰からも好かれてるってだけじゃ、幸せになんかなれないのよ」

及び「幸せは自分の手で掴むのよ」といったお言葉は、私の行動の軸になっている。 この女は大変強い。

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行動しないとなにも始まらない」のだ。この世は残念ながら少女漫画のように自分が動かずして周囲が都合のいいように変異して、喜ばせてくれる所ではない。ほっといても好かれる愛嬌のいい娘はモテるから恋愛欲に狩られることもないだろう。私の場合、昔は健やかに片思いをうっすら浮かべ、自分からグイグイ行動するなんて烏滸がましい・・・と日本古来の奥ゆかしい女学生のように消極じみていたが、高校生あたりから自分から行動しないと何もはじまんねえなという事実に本気で思うようになってから自分で掴みにいくスタイルを確立した。

 

男性とデートをすることによって、自分が女であることを改めて自覚できる。私は女の子として女の子を振る舞うことがきる。人だかりの駅や水族館やカフェで2人で共にお話ができたり、電車で隣に座ってくれたり、ちょっと手が触れちゃったりするのが単純にドキドキして楽しいんじゃなくて、それっぽい振る舞いをできている自分が嬉しくてしょうがない、のか。ドキドキはするんだけど、それってもしかして相手が純粋に好きで楽しくてしょうがないの好きじゃなくて、緊張から来るものを脳みそで後から"好きな人とドキドキした思い出"と定義づけているんじゃないのか、、、それがもうゴールになっちゃってるんじゃないか。

リアルの五感で味わう刺激的な現象を得ている瞬間は、"好きだ"って感情が消え失せているかもしれない。相手にどう見られているのか、ばかりに気を取られていてうまい返事ができていない。私は本当の意味でコミュニケーションが取れていない。相手と向き合っていない。

事実として、家に帰ると相手のことを思い出しながら妄想して、"好き"をさらに固めた上で好きな理由を固めて、ああ好きだなと思っている所。直接会っている時よりも、会っていない時、例えばLINEで会話している時の方が"好き"の気持ちが圧倒的に強い。なぜか。自分の思い通りの想像の余地があるから。

直接会ってる時は想像もクソもない。目の前に物体は存在しているから。事前にこれ話そうあれ話そうと会話内容をシュミレーションしていたとしても、絶対ペースが崩れる。そもそもシュミレーションしている時点で、

 

(自分)ーーーー(((意識)))ーーーーーーーーーーー>(相手)

         ll壁ll<ーーーー(((意識)))ーーーー

一方通行にしかなっていないんじゃないか。届いていないというか、、、

現実の男性から、虚像を切り取ってそれを恋愛に置き換えて脳内変換して楽しんでいるだけなんじゃないか。となると僕は一体何を見ているのか、そう、頭で考えた恋愛の幸せを享受している。

 

頭で考えた"幸せ"を現実から変換して受け取っているこの行為は、さらに飛躍し自分を愛することに繋がるという答えがでた。冒頭のアンサーのように「恋に恋している自分が好き」に帰結する。

実際に会った時の情報から、妄想の糸を手繰り寄せて、何倍にも膨らませた「もしかしたらそうかもしれない話」を何時間でも話していられる。脳に余裕があるとすぐにそっちの妄想にリソースを割いている。朝起きて、自転車乗って、ぼーっとしながらバイトして、twitter見て関連したものを見つけた時、そいつの思想に似たものを感じた時、会話内容からすべてをほじくり出して全部広げている。自分のものにしている。

そうやって想像して、会話と行動内容を見つけ出して合点のいく形で論を広げるのが楽しくて仕方がない。その自分にとって楽しい行動、楽(らく)な行動をすることが自分を大切にする、愛することなんじゃないかと。

恋愛はゲーム(遊び)だ、って感覚とどうにも似ている気がするが、そう言っちゃうと印象が悪いな。ゲームだと思っていて人の気持ちを弄ぶのが目的な本物の遊び人とはちょっと意識が違うと思うけど(ああいうのは対象を困惑させて自分に意識を向かせることで快楽を得る、かまってちゃん)、なんか恋愛の定義がズレてる根本的な原因は同じだ。"ゲーム"と捉えると悪に聞こえるし、私の場合は"自分を愛するため"に相手を利用させてもらっている善行なんだ。正当化した綺麗事だけど、幸せになるための。

 

 

私の"恋愛"認識は自己愛の享受ということがわかった。

そして、恋愛=コミュニケーション=就職活動

という答えは真実だと思う。まさに人は適材適所。

下記、藤本シゲユキさんの記事は、相手のことが好きすぎて依存傾向に走りメンタルがやられていた時、1日中読ませていただいた。男性視点の非常に現実的な指摘は、私のような夢を見てしまう残念な現代の女の教科書であり、クソみたいに長いウジウジした女の恋愛相談のコメント欄を見ていると、メンヘラの大切な受け皿になっているなあと思ったり、、、

 

そして、問題なのは私の中の定義が

恋愛 ≠ コミュニケーション(素直な自分でいることができる)

ということである。コミュニケーション、、、、つまり話していて楽しい、素直に会話ができる人間は私にとって恋愛対象には絶対にならない。ドキドキ、キュンキュンする人じゃないと恋愛ではない。

だとしたら妥協点はどこか、

  1. コミュニケーションが自然にできる人こそが真の好きな人であり恋愛対象とする(既存の価値崩壊)
  2. 虚構の恋愛をし自己愛を認知した状態で納得する(継続)
  3. 同じタイプを探す(新しい選択肢)

1に関しては、いい加減夢から冷めて、自分の考えを折らないといけない。たぶん友達のように仲良くできて素をだせる人が本物ってこと。結婚、将来の伴侶に近い。

2は今後また魅力的な人間が現れて、ああ多分この人のこと好きになっちゃうだろうなってのが経験上体感的に分かるから、必要に関わらないようにする、自己防衛おばさんになる。もしくはこりゃ叶わんだろうな〜〜〜って諦めながら、仕方なしに妄想を広げておく。

3は見つけるのが難しそう。同じく、コミュニケーションが素直に取れてしまったらダメって考えの人を探さないといけない訳だから。これは嘘つき同士が付き合うってこと。セフレってことか。素を出したくない人同士がどうやって出会うのさ、初っ端からセフレになろうぜ!なんて公言できるほど性にオープンな世ではない。広告サイトにありそうな無人島でセックスパーティーをする海外の人達並みに一見世紀末と捉えることのできる場所に身を投じたいとも思わない。言うなれば疑似恋愛か、『クズの本懐』を思い出してしまった。あれくらいが理想。頭で恋愛しているタイプを探すのは難しそう。一目惚れとかで告白されない限り。

クズの本懐(1) (ビッグガンガンコミックス)

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note.mu

もしその人が病気という障害を取り除いた後の自分の能力が大したことないと気づいてしまった場合、それは本当に幸福と言えるのだろうか。むしろ病気や障害を言い訳にして理想の自分を夢見続ける方が幸せな場合もあるかもしれない、と。
幸せへの道も、自分の不幸の原因も、みんなきちんとわかっている。ただ、『ちょっと不幸』でいつづける方が楽なのだ。
何かのせいにしつづけていれば、ちっぽけな自分に気づかずにすむから。
自分と向き合うことは辛い。だから人は何かを身につけたり環境を変えたりと外に原因を作って、自分と対話する時間を作らずにすむように日々を忙しさで埋めようとする。

ちょっと不幸なままの方が幸せ、できない言い訳ができる余地を残しておいたまま幸せを望んだり夢を持ったりしておいた方が案外現代人にとって精神的に居心地がいいのかもしれない。真っ正面から向き合うと死んでしまう、ってあたりがそのまま自分のモヤモヤを取り出ししてくれていた。

「不幸」であることを自ら選び取っていることを意識的に開示してくれて、それを肯定してくれた話ってなかなか巡り合わない。少し関連した余談。

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考えなくてもいいことを沢山考えてしまうので、やるべきことに集中できるようになりたい。切実に、、、。